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東大が炎と水に包まれた日〜東大紛争・安田講堂事件(1968〜69年)【TBSアーカイブ秘録】

国内
2025-07-09 07:00

東大紛争(東大闘争)は、1968年から1969年にかけて東京大学で起こった大学紛争です。東大のシンボル安田講堂に学生が立てこもり、講堂は炎と水に包まれました。(アーカイブマネジメント部 疋田 智)


【写真で見る】講堂内に機動隊突入 多くの学生たちが問答無用で逮捕された(1969年)


医学部から全学部へ 

東大紛争の発端は、東京大学医学部による登録医制度の導入でした。
インターン制度に代わるこの制度に、学生たちは「医師の労働力を安価に確保するための制度だ」と反発したのです。


1968年1月、医学部の学生たちは無期限のストライキに突入し、2月には学生と医局員が衝突しました。当局は17名を処分しましたが、そのうちの1人に誤認処分の疑いが浮上し、学生側は処分の撤回を強く求めました。
しかし大学側はこれに応じず、ここからいわゆる東大紛争はスタートします。


6月から立てこもりスタート

6月には一部の学生が安田講堂を占拠しました。これに対して大河内総長は警視庁の機動隊を学内に導入します。
このキャンパス内に機動隊を入れるという大学の対応は「大学自治を否定する行為!」として多くの教職員や学生の反発を招き、紛争は全学部に拡大していきました。
翌7月には「東大全学共闘会議(東大全共闘)」が結成され、学生たちは、全学共闘会議の承認や学費値上げの中止など「7項目要求」を掲げて大学側と対峙していくことになります。


立てこもりの長期化&セクト化

紛争の長期化に、大学側は一部譲歩しましたが、全共闘はそれを拒否し、10月にはすべての学部が無期限ストに突入し、「東大解体」といった過激な主張も展開されました。
一方で、民青系や無党派の学生グループも台頭し、学内では対立が激化していきました。大学対学生のみならず学生対学生(セクト対立)の闘争も過激化していったのです。


11月には大河内総長を含むすべての学部長が辞任し、新たに加藤一郎氏が総長代行に就任しました。


「安田講堂立てこもり」から入試中止へ

1969年1月10日、加藤代行と学生の代表団(各学部から代表を出した)は「確認書」に合意し、多くの学部でストライキが解除されました。


ところが、一部の全共闘派は安田講堂などの占拠を続けたため、1月18日から19日にかけて、のべ8,500人もの機動隊が出動したのです。これがいわゆる「安田講堂事件」です。


安田講堂に立てこもる学生たちは屋上から火炎瓶を投げつけました。これに対して機動隊は放水で応戦、投降を呼びかけました。
この騒動により多数の学生が逮捕され、全共闘は壊滅的な打撃を受け、紛争は収束へと向かいました。


767人もの逮捕者

政府は1969年度の東京大学入試を中止する決定を下し、大学側もこれを受け入れました。最終的に767人が逮捕され、616人が起訴、133人が実刑判決を受けました。
東大紛争は、大学自治や民主化を問いかける全国的な学生運動の象徴的な事件でしたが、学生たちの「挫折の記憶」でもありました。


しかし、令和の今これを見ると、筆者のようなかなりのオヤジ記者(89年文学部卒)にとっても「昭和の学生たちは元気だったんだなぁ」と感嘆せざるを得ません。


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情報提供元:TBS NEWS DIG Powered by JNN

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