
8月9日。原爆の日を迎えた長崎です。原爆が投下されたのは浦上というカトリック信者が多く暮らす地区でした。
「なぜ浦上に落とされたのか」。信者たちに突きつけられた問いと、ある詩人が目を向けた「戦争責任」について考えます。
【写真で見る】「なぜ原爆は長崎・浦上に」戦後カトリック信者たちに突きつけられた苦悩とある詩人が問い続けた「戦争責任」
80年前の長崎 忘れ得ぬ光景
それはある詩人にとって忘れ得ぬ光景であった。
山田かん「長崎被爆二十五年・文学・記録」より
「炎天のした、一瞬剥きだされた地表の、死に絶えたはるかに続く屍の道を、黒い襤褸の流れのように、人たちは現れては消えていった」
詩人の名は山田かん。被爆地を生きる者へも問いかけた。
「生きのびたことの意味について長崎は実にどのような答えを用意してきたのか。おのれ一人一人の内奥に向かって、激しくふり返るべきなのである」
1945年8月9日、原子爆弾を積んだ爆撃機は北九州・小倉へ飛んだ。しかし視界が悪く長崎へ向かう。投下目標は市街地中心部、長崎市万屋町の常盤橋。だが、ここも雲が厚い。
飛行を続け雲の切れ目があった場所。そこが長崎市浦上地区だった。浦上天主堂を象徴としてカトリック信者が多く暮らす街だ。
その朝、当時9歳の片岡仁志神父は、兄や友人と訪れた浦上天主堂からの帰り、寄り道していた。敵機が飛んできたと聞き、急いで自宅に戻ると先に帰っていた兄を探した。
聖フランシスコ修道院神父 片岡仁志さん
「アンチー(兄貴)はどこにおると?と聞いたら、母が『(兄は)家の裏でセミば取る』と言いおるって言ったから」
夏の日差しがまぶしかった。
聖フランシスコ修道院神父 片岡仁志さん
「日はカンカンと照っていました。私は『中に入れ』と言ったけど兄は『おいはセミば取ると』って言って中に入らなかった。それで私は家の中に入ったんです。そしたら音がしたんです。私は何だろうと思って勝手口から覗いた途端にもうわからなくなった。金属製の強い白い光が光ったんです」
11時2分。浦上の上空500mで原爆が炸裂した瞬間だった。片岡神父はその光で意識を失ったという。気づくと3mほど飛ばされていて、さらに3m先に兄が立っていた。
聖フランシスコ修道院神父 片岡仁志さん
「髪の毛ないんです。全身やけどです。着ていた上着もありません。路傍に立っている石の地蔵さんみたいでした」
兄は二度と話すことなく、その夜、亡くなった。片岡神父は日ごろ恐怖で逃げていた空襲と比べて原爆をこう表現した。
聖フランシスコ修道院神父 片岡仁志さん
「原爆はちっとも怖くない。一瞬のうちです。今考えてみると人間性を失いました」
世界から音が消えていた。
聖フランシスコ修道院神父 片岡仁志さん
「私は泣き声一つ聞きませんでした。話す言葉もほとんど聞いていません、人間の。叫ぶ声も聞いていません。そこにあるのは深い静寂です。何とも言えない深い静けさ」
そんな中で出会った同級生の少女の声が記憶に残っている。
聖フランシスコ修道院神父 片岡仁志さん
「『祈ろう 祈ろう』と言った。2声。『祈ろう 祈ろう』。『お祈りしましょう』ということですね」
被爆体験や被爆後の長崎を絵で語り継いできた築地重信さん。絵を書くようになったのは、同級生の片岡神父から自宅のバラック小屋が写った写真をもらい、模写したのがきっかけだった。
あの日、祖父に頼まれた用事で訪れた民家で、突然の光に襲われた。
築地重信さん
「カメラのストロボにとても近い。絵は光があって影があって絵になる。だけど原爆の光は真っ白。光だけで影は何もない」
その後目にした光景の数々。荼毘に付されるのを待つ遺体が散乱していた。爆死した家族を前に、嘆き悲しむ人にも遭遇した。そして築地さんもようやくたどり着いた自宅で同じ体験をすることになる。
築地重信さん
「おじいさんが黒焦げになって死んでいた。自分で、焼けたトタンを持ってきて叩きのばして、木の燃えかすを集めて荼毘に付した。ところが上半身が半分切れてる。上半身しかないわけだ。腹の中は恨み骨髄や」
なぜ浦上に 信者たちの苦悩と神の摂理
築地さんの絵には浦上天主堂の姿が多くある。
250年に及ぶキリシタン禁教時代、過酷な迫害を受けながらも信仰を守り通してきた。80年前、浦上の人口は1万5000人。ほとんどが敬虔なカトリック信者だった。
その1人が片岡津代さんだ。なぜ浦上の地に原爆が落とされたのか。初めて神への不信が心をよぎった。
片岡津代さん(1990年取材)
「この浦上の廃墟一帯を一望しましてね、そこで20分ぐらい泣きました。私達の一番大事なこの教会、貧困生活の中で完成したこの浦上教会は大事だったのに、そのとき私は疑ってはならない神を、自分が小さいときから信じてきた神をちょっと疑いました」
原爆で13人の親族を失い、自らも顔に重いやけどを負っていた。
片岡津代さん(1990年取材)
「おっかあ、うちの顔はどうなっているねと(聞いたら)『それぐらいの顔だったらいいさ、日にちがたてばだんだん良くなるさ』と言われた」
母との会話の後、小さな鏡を見つけた。
片岡津代さん(1990年取材)
「瞬間的に鏡を取れなかったんです。気持ちがもう震えだして。自分の気持ちを抑えてやっと顔を鏡に映した瞬間、絶望のどん底に世の中が真っ暗くなってしまいました」
被爆から3か月半、天主堂の廃墟の前で行われた慰霊祭でのある弔辞が苦悩する信者の心を救った。
医師でカトリック信者でもある永井隆博士。今も残る2畳一間の如己堂で、被爆前から患っていた白血病の療養をしながら執筆活動を続けた人物だ。慰霊祭で、永井は原爆の投下は神の摂理であると説いた。
永井隆博士 弔辞(「長崎の鐘」より)
「終戦と浦上潰滅との間に深い関係がありはしないか。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ、燃やさるべき潔き羔として選ばれたのではないでしょうか?」
永井の孫、徳三郎さんはその真意をこう推し量る。
永井徳三郎さん
「一番はどういうふうにして彼らを勇気づけられるか。特に当時、心無い人たちから『浦上に原爆を落とされたことは天罰』というようなことをささやかれたりして、かなり心の傷を受けられた方もいらっしゃったようです。同じキリスト信者として『これは神の思し召しによるもので、良いことも悪いことも全て受け止めて生きていくべきじゃなかろうか』という思いを込めた弔辞だったと私は考えています」
弔辞も掲載された『長崎の鐘』はベストセラーとなり、神の摂理の考え方が広まることになる。そして永井は長崎市名誉市民の称号や総理大臣表彰を受けるなど、政治的にも引き上げられ、浦上の聖者として神格化されていった。
占領期を過ぎると「戦争を終わらせるために犠牲を捧げた」という永井の言説に対する批判が見られるようになる。
後に『浦上燔祭説』と名づけ批判した髙橋元教授の視点だ。
元長崎大学教授 髙橋眞司さん
「浦上は日本の戦争犯罪というか、侵略戦争というか、そういうものを清める形で捧げられた『燔祭』だという、浦上の使者がいわば貢物として、亡くなった方は残虐な戦争の残酷な被害者だけにとどまらない、もっと政治的な意味を持っているという、そういう考え方にはついていけない」
詩人が問い続けた戦争責任
そして鋭い批判を展開したのが、詩人・山田かんである。「神の摂理とするのは原爆投下責任の隠蔽に繋がる」というものだった。
「聖者・招かざる代弁者」より
「『原爆』の内質としてある反人類的な原理をおおい隠すべき加担にほかならなく、民衆の癒しがたい怨恨をそらし、慰撫するアメリカの政治的発想を補強し支えるデマゴギーであることも否めない」
山田は戦争責任の所在を問い続けた。その原点となった出来事がある。被爆翌日の爆心地付近。“幼い子どもたちの黒焦げの屍が這うように残されていた”という道で、父が突然号泣し始めた。
「だいがこんげん戦争ば始めたとか(誰がこの戦争を始めたんだ)」
だが、当時14歳の山田は冷静に、それ以前の父の姿を思い出していた。
「敵性音楽は必要ない」と言って庭でレコードを割り、アメリカとの開戦を告げるラジオに興奮する好戦的な姿。
「長崎被爆二十五年の視点」より
「『だれがこのせんそうを』といっても、そこにはひとつの重大な加担が無意識に見すごされていたということも、今、はがゆい思いで問いかけるべきなのだ」
山田の次男、貴己さんは、その思いをこう語る。
山田貴己さん
「戦争を始めたのはもちろん国家ですが、それを支えたのは国民。父の一番近い大人だった父の父は軍国主義に染まっていた。父は『大人たちが始めた戦争』という感覚があったと思います。だから初めて大人が『誰が始めたんだ?』と言う慟哭を、父は非常に冷静に見ていた。一番守らないといけない一番弱い立場の幼い子どもが黒焦げで死んでいる様子を見て一瞬、正気に戻るというか、叫んだ父親自体が戦争に加担していたという、逆説的な場面でもあったと思います」
そして、少年の目で見た、人々が突然強制された酷い死を捉え直していった。
山田かん「ウデウデ時計」より
「うでやあしをつきあげている / まっくろけのひとのうでにすがって / このとけいは とうちゃんだよう、ちゃんだよう / と / ぜっきょうするのをききました / こえは まっくろのげんやを / きりさいてひびいていきました
脳裏に焼き付いているのは、遺体をつつくカラスの姿だ。
山田かん「白血の鴉」より
「死屍の開ききった眼球を琢いていた鉛色の嘴の鋭さが、眼窩の深い暗みににて、いま翔んでいる鴉が死屍の眼球を嘴に咥えて、褐色に灼けただれた山塊の蔭に消えていった同類の裔ではないと誰もいえないように、三十年の後を生きているのだ」
山田貴己さん
「生き方という言葉は軽いですが『もう逃れられない』というところもあったと思います。そういうのを目撃した、あるいは体験した、そして生き残ったものの責任といいますか」
山田かん「小峰町交叉点にて」より
「すべてが潰え、このおれの未だ生きてある脚のしたに埋めこまれていった地層を、その深いところにある現れない骨の化石のうえに築かれてしまった虚栄の市を知って欲しいとは思わぬが、この地に信ずる神と共に在りつづけた人びとの生は虐殺、異教徒でなく同じ信ずる者たちの手にかかり絶える苦しみは消えたであろうか」
苦悩から解放した「戦争は人間の仕業」
その苦しみを抱え続けた片岡津代さんを解放したのは、被爆36年後に来日したローマ法王ヨハネ・パウロ二世の言葉だった。
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世(1981年2月)
「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です」
片岡津代さん
「カトリック信者として被爆者として耳を立てて聞き入ったんです。『戦争は人間の仕業である』『過去を振り返ることは将来に対する責任を負うことである』この一節で私は心が決まったんです」
片岡津代さんの苦悩に向き合ってきた髙見三明名誉大司教。津代さんは心の中を吐露していた。
カトリック長崎大司教区 名誉大司教 髙見三明さん
「こんなことまで言われたんですよね、『顔に自信を持っていた』と。結婚するには困らない、自分は美しいんだという自意識を持っていて、“傲慢だったために神が罰をくれたんだろう”と。それは一つの彼女の悩みの中で見つけた答え」
常に葛藤の中で生きていたのだという。
カトリック長崎大司教区 名誉大司教 髙見三明さん
「死にたい、死んではいけない、アメリカが憎くてたまらない。しかし許さないといけないのがキリストの精神。どんなに虐げられても、悪く言われても許すというのはとても大きな信仰行為」
しかし、ローマ法王の言葉で苦しみが解かれ、体験を後世に伝えることにも踏み出した。
カトリック長崎大司教区 名誉大司教 髙見三明さん
「神の御摂理として受け止めなくても、人間の業だからアメリカを批判するなり、核兵器反対をするという方向にもっと積極的にいけると思ったのではないかなと思います。最後は穏やかな心で逝かれたのではないかと想像します」
被爆地・長崎の戦後史
長崎の戦後の歩みは、常にもう一つの被爆地・広島を意識するものだった。被爆から2年、GHQのマッカーサー元帥が広島にメッセージを送ると、長崎に対しても声明を望む投書が寄せられた。
広島で原爆の日に平和祭が盛大に行われると、なぜ長崎では行われないのか不満が渦巻いた。3年後には広島の復興の様子が大きく報じられた。
被爆から4年を迎えると、広島を追いかける形で11日間にわたる盛大な文化祭。爆心地で、打ち上げ花火に盆踊り大会が行われ、記事には「あの日の犠牲がきょうの佳き日を招いた」とある。
被爆の遺恨を保存するか否か。広島も長崎も議論が揺れた。広島は被爆から21年経って、原爆ドームの保存が決まった。
長崎では、被爆4年後から長崎市長の諮問機関で議論を重ね、浦上天主堂の廃墟を保存することで固まっていた。当時の田川務市長も保存の意向を示す。しかしアメリカを訪問した後から態度が変わる。
田川市長答弁(長崎市議会 1958年2月17日)
「原爆の悲惨を物語る資料としては適切にあらずと、平和を守るために存置する必要はないと、これが私の考えかたでございます」
市議会は全会一致で保存を決議するも、市長は頑なだったという。そして廃墟は撤去され、その一部だけが爆心地に移築された。山田かんはこう指摘した。
「被爆象徴として旧浦上天主堂」より
「残されたものは原爆の矮小化の危険さえはらむミニチュアに過ぎなかった。戦争の惨虐の極点として位置しつづけてきた天主堂廃墟を『適切にあらず』として抹消するという思想は、国を焦土と化した責任を探索せずに済ましてしまうという、まことに日本的な『責任の行方不明』である」
『怒りの広島』『祈りの長崎』。かつてそう言われた被爆地がともに大きく踏み出した年がある。元広島市長・平岡敬さんは戦後50年、国際司法裁判所で当時の伊藤一長長崎市長とともに「核兵器の使用は国際法違反」と訴えた。
アメリカの核の傘に頼る国の方針と異なる陳述をすることに、伊藤市長は悩んでいたという。
元広島市長 平岡敬さん
「彼は自民党出身の市長でしたから、かなりプレッシャーがあったと思うんです。ずいぶん悩んでた」
そんな伊藤さんの背中を押したのが平岡さんだった。
元広島市長 平岡敬さん
「広島は『国際法違反』ということで行くから足並み揃えたほうがいいよと言ったら、彼は『わかった』と。それから彼は『国際法違反』という陳述を私と一緒にやったんです。非常に素晴らしい陳述だった」
伊藤一長 長崎市長(当時)
「核兵器の使用は国際法に違反していることは明らかであります。(この写真は)焼死した少年の黒焦げの死体です。この子どもたちに何の罪があるのでしょうか?この子らの無言の叫びを感じてほしいのです。長崎市民の半世紀にも及ぶ、核兵器廃絶への悲痛な訴えと世界平和への願いをご理解ください」
元広島市長 平岡敬さん
「彼は吹っ切れたのでしょう。変わりましたね。すごく平和運動に熱心になった。多分その陳述がきっかけだと思います。伊藤さんを変えたのは市民の声だろうと思います」
それから30年。「核なき世界」は遠ざかるばかりだ。平岡さんはアメリカに過ちを認めさせることが核兵器廃絶の第一歩だと考えている。
元広島市長 平岡敬さん
「アメリカの責任を追及していくべき。それはやっぱり広島・長崎が足並みを揃えてやっていくべきだろうと。それが被爆地の生き残った者の責任だと思います」
詩人・山田かんが昭和天皇崩御の朝に思い出していたのは、被爆翌日の父の姿だった。
「大声で哭きつづける とうさん。道端は屍臭と火気と塵煙が黝々と渦巻いていた。中学三年のわたしは困惑だけだった。そして思った。
ダイガコンゲンセンソウバ、テイウタッチャ ソイハミンナ大人タチガシタトデシタイ(誰がこの戦争を、と言ったって、それは大人たちがしたことですよ)」
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