
「模範的な消防士が、実は冷酷な殺人鬼だった――」
戦後日本を震撼させた連続殺人事件「勝田清孝事件」は、1972(昭和47)年から1983(昭和58)年のおよそ10年にわたって広域で繰り返された前代未聞の猟奇事件でした。(アーカイブマネジメント部 疋田 智)*一部敬称略
【写真で見る】なぜこの男が10年にわたって犯行を続けることができたのか
優秀な消防士の裏の顔
勝田清孝元死刑囚は1948年、京都府に生まれました。
消防士として真面目に働き、表彰を受けるなど「地域の模範」と評されていました。しかし彼には「裏の顔」がありました。
1972年9月、京都府内で最初の強盗殺人を犯し、ここから長期にわたる連続殺人事件が始まるのです。
「クルマによる移動」が当時としては新しかった
彼の犯行は単なる窃盗や強盗にとどまりませんでした。ターゲットを決めると容赦なく襲撃し、金品を奪ったあと命を奪う。被害者は若い女性が中心でしたが、中年男性まで多岐にわたりました。しかし決して自分より強そうな相手を襲うことはありませんでした。
犯行地は、京都、大阪、愛知、兵庫、滋賀、岐阜と広範囲に及びました。勝田はこの時期としては珍しくクルマ(盗んだスポーツカーなど)で動いていたことが、捜査の目くらましになったと言われています。
認定されただけで10年間で8人が殺害され、自供では22人に及ぶとされました。
勝田にとっての「命の重さ」
勝田は時に計画的に、時に突発的に犯行を重ねました。
空き巣に入り、住人女性に見つかると、絞殺する。猟銃(散弾銃)を盗み出した上で、現金輸送中の男性を射殺して現金数百万円を奪う…。
金品の使い道は主に生活費や遊興費でした。勝田は身勝手な目的のためだけに、残虐な殺人を続けたのです。
特に衝撃を与えたのが1982年10月の事件でした。大阪府内でまず警察官をクルマで轢き、拳銃を強奪。その銃で自分が乗車したタクシー運転手を射殺したのです。
銃を手にした勝田、その後…
警察庁は広域重要指定事件113号として全国的に捜査を展開しました。
犯行はますます凶暴化し、勝田は「拳銃を持つ凶悪犯」として全国に指名手配され、社会は恐怖に包まれました。
その後も犯行は止まりませんでした。会社員を狙い、財布やクルマを奪ったのち命を奪う。スーパーに拳銃強盗に入り、売上金を奪って逃走する。勝田にとって人の命は、金品を得るための「手段」にすぎませんでした。
ついに逮捕、死刑判決に
1983年1月、名古屋市内の銀行駐車場で会社社長を拳銃で脅し、カネを奪おうとしたところ、逆に取り押さえられ、勝田はついに逮捕されます。
そこから過去の犯行を自供し、連続殺人事件の全容が浮かび上がりました。自供では被害者は22人。1年に2人以上をコンスタントに殺していたという計算です。
その後の裁判で8人についての殺害が認定され、死刑判決が下されました。執行は2000年の11月。20世紀最後の死刑執行のひとりとなりました。
「こういう人間がいる」ということに誰もが驚いた
勝田清孝事件の特徴は、そのあまりに冷酷な犯行様態にありました。罪を罪とも思わず、ときに行き当たりばったりで殺人を犯す「サイコパス」。それが銃を持ち、スポーツカーに乗って神出鬼没に現れるのです。日本全国が文字通り震撼しました。
一見、社会に溶け込んだかにみえる一人の男が、裏でまったく別の顔を持った殺人鬼として人々を襲う。この事件は映画化、テレビドラマ化などされ、戦後犯罪史を象徴する事件のひとつとなりました。
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