
闇は、意外な場所に潜んでいる。たとえば、子どもたちの歓声が響くプロ野球のスタジアム―そんな“最も健全であるはずの場所”でさえ。
【写真を見る】プロ野球の闇に挑んだ2人の男・・・私設応援団と暴力団めぐる攻防の秘話 「クマさんの力を借りるしかない」元特捜部長とヤメ検弁護士の軌跡【平成事件史の舞台裏(31)】
2000年代初頭、甲子園球場や東京ドームの外野席の一角では、刺青をした男たちが酒をあおり、チケットを売りさばいていた。
「私設応援団」を名乗るその集団の背後にいたのは暴力団だった。球場は暴力団の資金源となり、トラブル処理すら“裏社会のボス”が采配を振るう異様な構図が出来上がっていた。
この深刻な事態に立ち向かったのが、一人の“元特捜検事”である。東京地検特捜部長として数々の政界事件を指揮し、「割り屋」「落としの熊﨑」と呼ばれた熊﨑勝彦(24期)だった。
検察庁退官後、熊﨑が身を投じたのは、意外なことに「暴力団排除」に揺れるプロ野球界だった。その道筋をつけるきっかけとなり、右腕となったのが、かつて横浜地検で机を並べたヤメ検の猪狩俊郎弁護士(33期)である。
二人の再会は偶然ではない。熊﨑がまもなく退官を迎えようとしていた頃、プロ野球界はかつてない危機に沈んでいた。
「クマさんの力を借りるしかない」
猪狩の言葉をきっかけに、かつての師弟はプロ野球を揺るがす“浄化作戦”に向き合うことになる。球団や警察の足並みが揃わぬ中、矢面に立ち続けた猪狩弁護士と、混乱を収拾するために招かれた熊﨑元特捜部長。
二人はなぜ、プロ野球という舞台で再び手を組むことになったのか―。
これは、プロ野球の未来を守るために“火中の栗を拾った”二人の法律家の知られざる闘いの記録である。関係者の証言や取材記録をもとに、球界の闇に挑んだ師弟の軌跡を描く。
検察人生に幕を下ろした“特捜の申し子”
時代は、バブル崩壊の余波がなお色濃く残る2000年代前半である。
「リクルート事件」を皮切りに「金丸信巨額脱税」「ゼネコン汚職」「野村証券・第一勧銀事件」「大蔵省接待汚職」など、戦後史に残る数々の政界事件捜査を手がけ、“伝説の特捜検事”と言われた熊﨑勝彦。
東京地検特捜部長、富山地検検事正、最高検察庁公安部長などを歴任したのち、2004年9月、退官した。長きにわたる検察官人生に、ひとつの区切りをつけた瞬間だった。
弁護士に転じた熊﨑は、「リクルート事件」で共に捜査に携わり、江副浩正会長の秘書室長らの取り調べを担当した後輩検事・矢田次男(28期)が主宰する「のぞみ法律事務所」に身を置くことになる。
だが、その約2年後、熊﨑は事務所から徒歩5分ほどの距離にある「一番町綜合法律事務所」2階へと拠点を移した。
そこは、横浜地検時代の直属の部下であり、盟友でもある猪狩俊郎の事務所だった。
「しばらく世話になるわ」
熊﨑は、同フロアに「熊﨑勝彦法律事務所」を新たに開設する。
1990年代、「ゼネコン汚職事件」や「新井将敬事件」を舞台に、熊﨑と猪狩は、検察側と弁護側という立場で、真っ向から対峙してきた。その二人が、時を経て再び同じ屋根の下で机を並べることになるとは、当時、誰が予想しただろうか。
実は、この熊﨑の退官をめぐっては、外部にはほとんど知られていない、知られざる舞台裏があった。
暴力団関係者が酒を飲み、チンチロリンに興じ・・・無法地帯の外野席
ここで時計の針を少し戻そう。
1998年の「新井将敬事件」で新井の弁護人を務めた猪狩俊郎は、これを最後に特捜事件の弁護から一線を引いた。
以後は、かねてよりライフワークとしてきた「安全な社会の実現」、すなわち「反社会勢力」や「暴力団」の排除運動に軸足を移していく。
当時、新たな社会問題として浮上していたのが、プロ野球を取り巻く反社会勢力の存在だった。なかでも問題視されていたのが、球場の外野席を事実上支配していた悪質な「私設応援団」である。
その背後には、国内最大の指定暴力団の関与が取り沙汰されていた。
「甲子園球場」や「東京ドーム」の外野席コンコースでは、刺青を入れた上半身裸の暴力団関係者が昼間から酒を飲み、チンチロリンに興じ、客に対して無許可で応援グッズを販売する光景が日常化していた。「東京ドーム」では、私設応援団が外野自由席を実質的に占拠し、一般客に高値で転売する不正行為も常態化していた。
そもそもプロ野球の応援文化には、ファンが組織する「私設応援団」が100団体以上存在し、球団側から応援旗や楽器の持ち込み、優先的な座席の割り当てといった“特権”が与えられていた。この“特権”をめぐる応援団同士の勢力争いが、結果として暴力団の介入を招いていたのである。
2001年ごろになると、こうした横暴に耐えかねた一般ファンから、警察への相談が急増した。
「健全な応援団が恐怖にさらされながら観戦している」
「観客には安心して野球を観る権利がある」
「外野席から家族連れが姿を消している」
事態を重く見た警察庁も、ようやく本腰を入れ、球場内外での不正行為に対する本格的な取り締まりに乗り出す。
日常となった「私設応援団」の暴走 逮捕者も出る事態に
2003年10月。ホームレスを並ばせてチケットを大量に買い占め、高額で転売していた阪神の私設応援団メンバーが、「ダフ屋行為」の疑いで逮捕された。
当日券が完売していても、「ダフ屋に声をかければ入場できる」という歪んだ構造が、長年放置されていたのである。
だが、球場内はさらに無法地帯と化していた。
逮捕されたメンバーは球団の許可を得ないまま、応援用のジェット風船や「六甲おろし」の歌詞カードなどを販売し、その利益を反社会勢力である暴力団に上納していたのだ。
また巨人の私設応援団「ジャイアンツ東京応援団」のメンバーは、警備員と共謀して外野自由席をブルーシートで覆い席を占拠。これを客40人に転売したとして、都迷惑防止条例違反、いわゆる「ショバ行為」で逮捕されたのである。
こうした私設応援団による暴走は、もはや例外ではなく、球場における“日常”と化していた。
「なめとったら殺すぞ」応援団の“脅し”に屈した球場
ついに、私設応援団の行為は脅迫事件へと発展した。
警察によると、事件が起きたのは2002年9月24日。甲子園球場で行われた「阪神―巨人戦」。試合は阪神が勝利し、通常なら「六甲おろし」が合唱される。
しかし、この日は他球場の結果により、試合前に巨人のセ・リーグ優勝が決定していたため、セレモニーとして原辰徳監督の「胴上げ」が先に行われる予定だった。
これを聞いた阪神私設応援団「中虎(ちゅうとら)連合会」の会長は激怒し、午後8時ごろ、球場長らを球場内の控え室に呼び出した。そして約2時間にわたり、「原監督の胴上げより先に、六甲おろしを合唱させろ」と要求し、球場長を脅迫し続けたのである。
「なめとったら殺すぞ。おまえら、埋めたろか」
「星野(仙一)監督に会わせろ」
結局、球場側が屈する形で、原監督の「胴上げ」は「後回し」にされたのである。
捜査の結果、球場長を脅迫した「中虎連合会」の会長と幹部は、いずれも山口組系暴力団の元組員および現役組員であることが判明。翌2003年10月、脅迫および暴行の疑いで兵庫県警に逮捕される。
この事件により、「中虎連合会」が実質的に山口組系暴力団の支配下にある実態が浮き彫りとなった。
さらに事件は続く。警視庁は2003年11月、「中虎連合会」の幹部3人が「東京ドーム」の職員に「服が汚れた」などと因縁をつけ、阪神戦のチケットなどを要求したとして恐喝容疑で摘発した。
“腐れ縁”が利益供与にまで…明らかになる驚くべき実態
「東京ドーム」の観客や巨人ファンからは、巨人軍の親会社である読売新聞社にも苦情が寄せられていた。
こうした異常事態の打開に立ち上がったのが、のちに読売巨人軍オーナーとなる読売新聞法務部長・山口寿一(現・読売新聞グループ本社代表取締役社長)である。
調査を進める中で、驚くべき実態が次々と明らかになった。
「球場で起きる多くのトラブルは、暴力団の影響下にある私設応援団の“ボス”が仲裁役として処理していた。トラブルを起こした応援団からは“仲裁料”を徴収し、一方で球場側との交渉も独占する。球場職員はボスに依存せざるを得ず、いつしか“腐れ縁”となり、利益供与まで生じていた」(猪狩)
さらに、力の弱い応援団に対しては「みかじめ料」を要求し、従わない団体には脅迫や暴行を加えて活動を封じ込める。
追い詰められた弱小団体は、暴力団系応援団の傘下に入るほかなかった。
プロスポーツ界として初の「暴力団等排除宣言」採択も・・・
こうして階層化された構造の中で、暴力団を頂点とするピラミッドが築き上げられていた。プロ野球は、知らぬ間に暴力団の“資金源”となり、“食い物”にされていたのである。
もはや、球団や球場職員の手に負えなくなっているのは明らかだった。
山口は「この問題を解決するには、全球団、NPB(日本野球機構)、そして警察が一体となって、悪質な応援団を排除する以外に道はない」と訴え、根来泰周コミッショナーらを説得して回った。
その働きかけは実を結び、2003年12月、全球団に加えて警察庁、日本弁護士連合会などが参加する「プロ野球暴力団等排除対策協議会」の設立にこぎつけた。
同年12月9日に開かれた第1回協議会では、プロスポーツ界としては初となる「暴力団等排除宣言」が採択された。長年手つかずだった「暴排」が、ようやく現実の施策として動き出したのである。
しかし、これはあくまで出発点にすぎなかった。行く手には、なお幾重もの困難が待ち受けていた。
折しも同じ頃、山口と同様の問題意識を抱き、反社会勢力への強い危機感を募らせていた人物がいた。
第一東京弁護士会「民事介入暴力対策委員会」の委員長を務めていた猪狩俊郎である。
猪狩は知人を介して山口と連絡を取り合い、その実情を聞くや、「協力して手を組みたい」と決意を固めた。こうして、暴力団壊滅に向けた本格的な作戦が幕を開けた。
調査で浮かび上がった四つの“悪質私設応援団”
猪狩は2004年1月6日、山口から次のように切り出された。
「警察の検挙だけでは解決にはなりません。正式な応援団も、恐怖心から萎縮し、取り込まれてしまっています。暴排条項を盛り込んだ球場運営、観戦規則を整備し、口先だけでないことを示す必要があります。12球団、球場が一致団結して統一行動を取ることが何よりも肝要です。しかし、『アンチ巨人』の意識を持つ関係者もいて、これがとても難しい。でもプロ野球全体のためどうしても必要な改革だから、何とかやり遂げたい」(「激突」猪狩俊郎)
猪狩も、まったく同感だった。頭脳明晰で記憶力に優れ、複雑な問題を的確に整理して語る山口の言葉は、深く胸に響いた。
「これこそ、やりがいのある暴力団排除活動だ」
そう感じた猪狩は、全面的に山口を支える決意を固める。以後、相談役となって各地の球場を奔走し、外野席の混乱を自らの目で確かめて回った。
ある日、その外野席で、入場を拒否された私設応援団のメンバーたちに取り囲まれる出来事があった。
「再入場させてくれ!」
声には切迫した怒りと諦念が入り交じり、彼らは異様な執念をむき出しにしていた。
しかし、猪狩は振り返る。
「山口さんは、どんな状況でも一切動じなかった」
調査を進める中で、特に悪質と判断された「私設応援団」が四つ浮かび上がった。
それは、阪神の「中虎連合会」、巨人の「三重巨勝会」「ジャイアンツ東京応援団」「読売応援団名古屋連合会」の四団体であった。
現役の山口組組員も・・・悪質四団体を“全球場出入禁止”に
なかでも「中虎連合会」は、1984年に勃発した山口組と一和会によるいわゆる「山一抗争」が、甲子園球場に波及するのを防ぐために設立されたとされる。
組織のトップは代々、山口組系が掌握してきた。ライトスタンド中段を拠点に活動していたことから「中虎」と呼ばれ、1987年には連合会を結成。全国に傘下二十六団体、会員五百人以上を擁する巨大組織へと膨張していく。
黒い法被姿が目立ったことから、「黒法被連合」の異名もとった。
一方、巨人の私設応援団「三重巨勝会」。
三重県に本部を置き、「巨人軍を勝たせる会」という意味に由来すると言われる。
そして、あろうことか組織を率いていたのは、現役の山口組組員だった。
2003年7月、その組員は「東京ドーム」で指定場所以外に立ち入り、トランペットを吹奏。
注意した読売新聞社社員に腹を立て、暴行を加えて現行犯逮捕された。
翌日から東京ドームへの出入りを禁止されたが、処分に納得しなかった組員は、翌月、「ナゴヤドーム」での試合中に正規の巨人応援団を取り囲み、因縁をつける。
「読売との交渉を、ちゃんとやらなかったやろ!」
そう叫ぶと、殴る蹴るの暴行を加え、被害者は三か月の重傷を負った。組員は再び逮捕される。
もはや、先送りは許されない状況だった。
2004年1月。猪狩と山口は、球団・球場関係者同席のもと、東京・大手町の「KKRホテル東京」に悪質四団体の主要メンバーを呼び出し、通告した。
「これまでの行状を踏まえ、やむを得ない措置として、あなた方四団体については、全球場への出入り禁止を決定しました」
当然、激しい反発が噴き出した。
「三重巨勝会のYが、暴力団だとは知らなかった」
「行き過ぎがあったことは認める。もう二度としない。だから入場だけは許してほしい」
しかし、猪狩らは一切取り合わなかった。むしろ、「東京ドーム」「神宮球場」を含む全球場への無期限入場禁止を明記した「排除通知書」を突きつけたのである。
通知書は「弁護士会民暴委員長名」で発送されたが、「送付代表者」が猪狩であったため、猪狩の「一番町綜合法律事務所」には、激しい嫌がらせが相次いだ。
「電話は、切っても切っても鳴りやまなかった。入場を懇願するもの、匿名の脅迫、無言電話…。だが、それこそが、連中が反社会勢力であることの何よりの証拠だった」(猪狩)
「NPO法人」を隠れ蓑にした「プロ野球応援協会」
「私設応援団」側の抵抗は、その後も続いた。
2004年2月、猪狩らは東京・文京区の「こんぴら会館」に、いわゆる「悪質四団体」を除く私設応援団を集め、説明の場を設けた。悪質四団体を排除した理由と、私設応援団そのものを全面的に排除する意図はないことを丁寧に説明したうえで、今後の条件を通告した。
入場に際しては、▼応援団員の名簿提出、▼迷惑行為を行わないことを約束する誓約書の提出、この二点を求めるという内容だった。
しかし、私設応援団側は強く反発した。
「なぜ個人情報を提出しなければならないんだ」
「球団や球場に、そんな権限があるのか」
出席者の中には、後に警視庁に逮捕される元山口組系右翼団体の塾長や、他の応援団への暴行・恐喝未遂で兵庫県警に逮捕された人物も含まれていた。
その場の空気について、猪狩は後にこう振り返っている。
「足を大きく開いてふんぞり返る態度、鋭い目つき、ぞんざいな口ぶり――。これまで対応してきた何人ものヤクザと、まったく同じだと内心思った」
徹底抗戦の構えを崩さない私設応援団側も、時を同じくして“奇策”に打って出る。
同月、「NPO法人(特定非営利活動法人)」を隠れ蓑にした「プロ野球応援協会」と名乗る団体を設立しようと、大阪府に対し認証申請を行ったのである。
「NPO法人は本来、福祉や環境保護など公益活動を担うための制度であり、反社会的勢力の隠れ蓑となることは想定外だった」(関係者)
提出された「事業計画書」には、「プロ野球発展のためのボランティア活動を行う」など、一見するともっともらしい理念や文言が並んでいた。
しかし、その実態は、これまで繰り返してきた違法行為や不当な影響力行使を正当化し、既得権益を温存しようとする内容にすぎなかった。
猪狩は、その狙いをこう分析する。
「トランペットや太鼓による鳴り物入り応援という“特権”を盾に、これ見よがしに振る舞い、周囲を威圧して事実上の権力を握る。それが彼らの目的だった」
「NPBが、横暴を極め違法行為を重ねてきた私設応援団を排除したにもかかわらず、署名活動まで行って元に戻そうとし、球場を再び違法状態へ引き戻そうと提案しているにすぎなかった」(同書)
猪狩は、「このNPO法人は認証されるべきではない」とする意見書を徹夜で作成し、山口に手渡した。二人は新幹線で大阪へ向かい、日本初の女性知事である大阪府知事・太田房江に、意見書を直接提出したのである。
足並みそろわぬプロ野球 「中日ドラゴンズ」「ナゴヤドーム」の抵抗
太田房江は、日本初の女性知事である。
前任の横山ノック知事が「強制わいせつ罪」に問われて辞職したことを受けて行われた、2000年2月の大阪府知事選挙に、自民党などの推薦を受け、初当選を果たした。
通商産業省(当時)の官僚時代には、省内の「中日ドラゴンズ」ファンクラブに所属していたことで知られる。
また大阪府知事就任後は「阪神タイガース」のファンに転向したことを公言するなど、筋金入りのプロ野球好きとして知られていた。
その大阪府は2004年6月、役員の中に禁固刑以上の刑に処せられた者が含まれており、「法定の欠格事由に該当する」と判断し、当該NPO法人について認証を行わない決定を下した。
NPO法人の不認証は、きわめて異例のことだった。
一方で、プロ野球十二球団の足並みは、なおもそろっていなかった。
中日ドラゴンズとナゴヤドームは、「悪質四団体」のうち二団体については排除しない方針を決定。これを受け、地元の「愛知地区協議会」は「球場が平穏を取り戻している」などを理由に、「中虎連合会」の排除解除を求める上申書を正式にNPBへ提出した。
この一連の動きに、猪狩は強い憤りを覚えた。
「何が『平穏を取り戻した』だ。東京地区で山口さんが必死に積み重ねてきた努力の成果に、ただ乗りしただけじゃないか。あまりにも無責任だ」(同書)
猪狩らは、中日球団およびナゴヤドームによる排除解除要請を撤回させるべく、根来コミッショナーに「意見書」を提出した。
あわせて「東京地区協議会」として、「悪質四団体」に対する排除措置を継続する方針を明確に打ち出す。
この判断に呼応し、他の多くの地区協議会も同様に「排除継続」を決定した。
こうして猪狩らは、連日、私設応援団への対応に追われ、常に矢面に立たされることになる。プロ野球界から暴力団を排除する道のりはなお遠く、解決すべき課題は山積していた。
「暴力団排除」に必要な“圧倒的な存在” 頭に浮かんだ男とは?
混乱を収拾するには、圧倒的に強力な存在が必要だった。
猪狩の脳裏に浮かんだのは、“クマさん”こと熊﨑勝彦である。検察の最前線で数々の政界事件を手がけてきた熊﨑の手腕が、自然と思い起こされた。
当時、熊﨑は最高検察庁公安部長。六十三歳の定年まで、残された時間は一年余りだった。猪狩は考えた。
――混迷を深め、十二球団が足並みをそろえられずにいる「プロ野球の暴力団排除問題」をまとめ上げるには、クマさんをNPBの「コミッショナー顧問」として迎え、陣頭指揮を執ってもらうほかない。
当時のNPBトップ、コミッショナーは根来泰周(10期)である。
根来は1995年、検事総長就任が確実視されていた。しかし同年、地下鉄サリン事件が発生。当時の検事総長、吉永祐介(7期)がオウム事件への対応などを理由に留任したことから、根来に順番が回ってくることはなかった。
そのため、根来は検察ナンバー2である東京高検検事長を最後に退官し、公正取引委員会委員長を経て、2004年1月、NPBコミッショナーに就任していた。
和歌山の住職の家に生まれ、僧侶の資格も持つ根来は、周囲から「争いを好まないタイプ」と見られていた。法務省で国会対策を長く担い、自民党に近い存在とも評された。
橋本内閣の官房長官を務めた梶山静六との関係は、週刊誌で「N―Kライン」と報じられたこともある。
筆者も司法記者クラブ時代に取材で接しているが、阪神タイガースファンを公言し、執務室にはタイガースのグッズが並ぶなど、関西弁でざっくばらんな印象の人物だった。
だが、猪狩は根来に失望していた。
「根来さんは、いざという場面で腰が引ける。暴力団排除でも、何の役割も果たしていない。問題を解決する力は、皆無だ」(同書)
「クマさんの力を借りるしかない」反社会勢力との新たな戦いへ
そこで猪狩が白羽の矢を立てたのが、旧知の熊﨑勝彦だった。
「12球団をまとめるには、クマさんの力を借りるしかない。NPBのコンプライアンス担当としてコミッショナー顧問に迎え、暴力団排除問題の陣頭指揮を執ってもらいましょう」
この提案は、猪狩から山口を経てコミッショナー事務局長に伝えられ、最終的に根来のもとへと上申された。検事時代の大先輩にあたる根来から声をかけられた熊﨑は、しばし考えた末、その要請を受け入れることになる。
「プロ野球の暴排については正直よく分からんが…お前が頼りだ。しっかりやってくれよ」
熊﨑はそう言って、笑顔で猪狩に語った。その言葉を受け、猪狩も覚悟を示した。
「根回しは山口さんと私で引き受けます。協議会で熊﨑さんが、ビシッと言ってくだされば、それで十分です。必ずうまくいきますから」(「激突」猪狩俊郎)
2004年5月20日。第3回「暴力団等排除対策協議会」に出席した熊﨑は、十二球団が足並みをそろえられず、混迷を深める現実を、否応なく突きつけられることになる。
熊﨑は2004年9月、定年を数か月後に控え、最高検公安部長を最後に検察官としてのキャリアに幕を下ろした。
第一東京弁護士会への弁護士登録は、猪狩が代行した。
そして翌2005年1月、熊﨑は正式にNPBのコンプライアンス担当「コミッショナー顧問」に就任した。
プロ野球の世界に身を投じるという決断。
熊﨑にとって、それは「反社会勢力」との新たな戦いの始まりを意味していた。
(つづく)
TBSテレビ情報制作局兼報道局
ゼネラルプロデューサー
岩花 光
《参考文献》
猪狩俊郎「激突」光文社
村山 治「安倍・菅政権vs検察庁」文藝春秋
熊﨑勝彦/鎌田靖「平成重大事件の深層」中公新書クラレ
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」 新潮社
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