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天皇皇后両陛下 オランダ訪問 忘れてはいけない歴史 強制収容されたオランダの少年「苦しみは今も」 捕虜虐待を覆い隠す“やらせ映像”入手【news23】

国内
2026-06-13 20:56

13日、天皇皇后両陛下はオランダに向け出発されます。
長年にわたり友好関係を築いてきた日本とオランダですが、両国の間には戦争が残した“忘れてはいけない歴史”がありました。


【写真を見る】捕虜虐待を覆い隠す日本が作った“やらせ映像”の一部


オランダ皇室と親しい関係も…55年前に昭和天皇が訪問の際には激しい抗議

天皇陛下(11日)
「両国を雅子とともに訪問できることを大変嬉しく思っております」


オランダ訪問を前に、こう抱負を述べられた陛下。


今、皇室とオランダ王室は親しい関係にあります。しかし55年前、1971年に昭和天皇が訪問した際には…


当時の記者
「昭和天皇の車にビンが投げつけられ、フロントガラスにひびが入るという事態が生じました」


オランダ国民が激しい抗議活動を行いました。“怒り”はなぜ生まれたのか。忘れてはいけない歴史があります。


トン・ステファンさん(92)は子どもの時、繰り返し聞かされた日本語が忘れられません。


日本軍に強制収容された トン・ステファンさん(92)
「『一 二 三 四 五』『気を付け』『敬礼』『直れ』 。日本語の命令を覚えさせられました」


「苦しみは今も」心に深い悲しみと怒りを刻みつけた強制収容の過去

戦時中、日本軍はオランダの植民地だったインドネシアを占領。オランダ兵だけではなく、その家族や一般の住民も含め、10万人以上の外国人を強制収容しました。


11歳だったトンさんも家族から引き離され少年収容所に。


トン・ステファンさん
「収容者は棒で殴られました。与えられる食事はごくわずかです。毎日、誰かが収容所で死にました。少年たちもです。栄養失調から病気になってしまうのです」


一時期、祖母も一緒に収容されましたが、日に日に栄養状態が悪化していき、帰らぬ人となりました。


トン・ステファンさん
「祖母は自分の食べ物を分けてくれました。私たちは喜んで食べましたが、そのせいで祖母は亡くなったのです」


日本の天皇を敬うよう強制されたといいます。


トン・ステファンさん
「日本兵・日本国旗を見るたびに『お辞儀』をしなければなりません。日の丸は“天皇の象徴”だったからです。

あるオランダ人女性が、日本兵の前で頭を下げようとせず、彼女は木に縛りつけられました。

いつか天皇陛下や日本政府が私たちに謝罪してほしい。当時の私たちの苦しみは今も残っています」


強制収容の過去は、トンさんの心に深い悲しみと怒りを刻みつけました。


捕虜がステーキをたしなむ…日本が作った“やらせ”映像

インドネシアの収容生活の様子だという、ある映像を入手しました。


捕虜たちが日本軍から“給料”をもらい、冷たいビールをごくり。ステーキもたしなみます。


実はこれ、捕虜を適切に扱っているとアピールするために日本が作った“やらせ”映像です。


戦争責任を問う「東京裁判」の場で、オランダ側は日本の“やらせ”を検証する映像を上映し、批判しました。


オランダ側が制作した検証映像より
「日本軍は 『撮影に協力しなければ、収容所全員の食糧配給を減らし、医薬品の供給を止める』 と脅してきた」


東京裁判では、収容所の本当の状況とされる映像も映し出されました。やせ細った捕虜、傷を負って歩けない男性、親と引き離された子どもたちの姿も。


抑留者の歴史に詳しい専門家は…


恵泉女学園大学 内海愛子 名誉教授
「判事たちにとって、具体的に捕虜虐待を可視化したもの。傍聴席にいた人からはうめき声が上がった」


東京裁判で明かされた捕虜の扱い。日本に連行された捕虜もいました。


「父は日本への怒りを抱えたまま亡くなった」

アンドレ・スクラムさん(77)の父・ヨハンさんは、インドネシアから連行され、長崎市内の強制収容所に入れられました。


父が日本で捕虜にされた アンドレ・スクラムさん
「父を最も苦しませたのは、自分がまるで存在しないかのように扱われたことでした。何の権利もなく、完全に無視された」


収容所では飢餓と暴力が蔓延していました。そしてヨハンさんは、原爆投下を目の当たりにしたといいます。

終戦後、オランダに帰国しますが、日本についてはほとんど語りませんでした。ただ一度だけ、がんで亡くなる間際に思いを露わにしたといいます。


アンドレ・スクラムさん
「(死の数日前)父は泣き出しました。そして医師にこう言ったのです。『ジャップども』『“ジャップ”どもの前でもひざまずきはしない。俺は立ち上がって死ぬんだ』と。彼は強い人でしたが、あの瞬間だけは悲しげでした」


ヨハンさんは、日本への怒りを抱えたまま、1993年に亡くなりました。


アンドレさんはその後、父・ヨハンさんの生涯を徹底的に調べました。それは父の苦しみと対峙することにつながり、“日本への不信感”が募っていきました。


「苦難の時期を忘れてはならない」 天皇皇后両陛下 オランダ訪問の意義

2000年。当時の両陛下がオランダを訪問します。いまの上皇ご夫妻です。


1971年のときと同様、やはり反日デモが起きました。


そんな中、上皇ご夫妻は約1分間の長い黙とう。身じろぎ一つされず、頭を下げつづけました。


その日の晩さん会で上皇さまは…


「今なお、戦争の傷を負い続けている人々のあることに深い心の痛みを覚えます」


両国の皇室と王室は互いに訪問を重ね、少しずつ良好な関係を築いていったのです。


そして、ヨハンさんが収容されていた長崎で変化が訪れます。


2015年、捕虜収容所の跡地に慰霊碑ができたのです。「加害の歴史を忘れてはならない」と市民らが募金によって建てました。


アンドレさんの気持ちは変わっていきました。


アンドレ・スクラムさん
「私は感動しました。この慰霊碑は日本の資金で建てられたのです。日本の人たちがこれを建てたのは、平和、和解、追悼への思い『歴史から学ぼう』という信念があったからです」


収容所の跡地では、今も毎年、慰霊の式典が行われています。オランダ人捕虜の遺族が、今年も訪れました。


そして、天皇皇后両陛下がオランダに出発されます。


天皇陛下(11日)
「苦難の時期があったことを私たちは忘れてはなりません。平和の尊さを改めて心に刻みながら、両国の方々との交流を大切にしていきたいと思っております」


アンドレ・スクラムさん
「過去を語り合い、互いに敬意を払えれば、『これからどうやって共に生きていくか』話を始められるのです。今回の訪問で両国の絆が深まることを期待しています」


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