
SNS全盛時代にあって、新聞やテレビなど伝統的な報道機関の持つ影響力や存在感は相対的に弱くなったと指摘される。しかし、健全な民主主義社会には専門的に報道に携わる組織あるいは個人が不可欠であることは論をまたない。ただ、そうした人たちの取材報道活動=ジャーナリズムを時代にあわせてアップデートすることは重要だ。そのために必要な議論の素材を提供する目的で始まった、専修大学ジャーナリズム学科・山田健太教授による連載「明日のジャーナリズムへ」の第3回をお届けする。
報道の基本は「事実を伝えること」とされてきたし、今後も変わることはなかろう。しかし何をどう伝えるかは時代において変わりうるし、メディア媒体の特性によっても違ってくる可能性がある。ただしその場合でも、これだけは外せないというジャーナリズム活動の肝が存在し、一般には「報道倫理綱領」や「記者行動規範」として明文化されている場合も少なくない。ジャーナリズム倫理と呼ばれるものでもある。そこで2回にわたり、SNS時代の事実報道の在り方を確認していくことにしたい。
公的情報を社会で共有する意味
ニュース(あるいは文章一般)の基本要素として昔から、5W1Hの重要性が語られており、この「いつwhen・どこでwhere・だれがwho・なにをwhat・なぜwhy・どうしたhow」が、出来事を伝える場合の原則である。さらに言えば「より速く、より正しく、より分かりやすく」を、これまで多くの大手メディアは目指してきた。もちろんこれらは、送り手の都合だけではなく、受け手にとっても知りたいことであって、両者の利害の一致があるからこそ成立している側面も否定しえない。
しかし一方で、社会の大きな関心事ではなくても、きちんと社会のなかで記録として残し、あるいはできる限り多くの人に知っておいてもらう方が、その時点もしくは将来において社会全体の利益となるものも少なくない。むしろジャーナリズム活動の重要な点は、社会に埋もれている、あるいは見過ごされがちな出来事や声をきちんと拾い集め、可能な限り多くの市民に知らせることであると言ってもよかろう。
まさに、為政者に代表されるような大きな声の人の話を伝えるような「発表」モノも、それなりに伝える意味はあるものの、これらばかりになってはいけないというのは、発表ジャーナリズムの戒めとして多くのジャーナリストが日常的に気をつけていることに違いない。しかしそうは言っても、無数の出来事をカバーするには限界があり、ある一定の目安なり社会的な合意のもとでジャーナリズム活動を行わないと、社会全体で流れる情報も偏りが生じてしまうし、受け手である市民から送り手に対する信頼感も減少してしまうことになるだろう。
今日のネット社会の中で、みんなが勝手に自分の興味のある出来事や情報を発信していけば、いわゆる「集合知」として、結果として社会として必要十分な知識や情報が行き渡ることになるといった考え方も存在はする。
理屈上ではもしかするとありうるかもしれないが、実際にはアテンションエコノミーやアルゴリズムが作用して、そもそも私たちが目にする情報自体に偏りがみられる傾向が続いている。さらには、フィルターバブルやエコーチェンバー(注1)といった、私たち受け手の側の問題によって、そうした偏りは増幅されているとも言える。
(注1)フィルターバブル…関心に沿った情報が優先的に表示され、似た情報ばかりに触れやすくなる現象。エコーチェンバー…同じ考え方や意見が繰り返し共有されることで、その考えが強まっていく状態を指す。
あるいはそもそも、出したくない情報は誰もが隠そうとするし、とりわけ公権力が一義的に保有する情報に関しては、彼らにとって「不都合な真実」が未来永劫なかったことになりやすいことは歴史が証明している。
だからこそ、インターネットが生まれる前から、社会とりわけ民主主義国家においては、いかに公的な記録を残し、それを国民の財産(資源)とし共有するかの工夫が続いてきている。いまふうの言葉で言えば、公文書の管理であり情報公開の制度構築だ。
ここで少しだけ日本の公文書管理や情報公開について触れておく。
日本の情報公開制度は、国内法ではほとんど例がない、住民運動発で地方から中央への攻め上がり型の法制度だ。1970年代末からの市民運動に押されて各地方自治体で先駆的な取り組みが続き、全国の大勢が決まる中で政府も重い腰を上げ、偶然にも非自民政権が誕生したことがきっかけとなって、1999年に情報公開法が成立した(注2)。スタートは遅かったが、それでも世界の中の先頭グループの最後尾に食らいつき、内容もギリギリ及第点であったと言えるだろう。
(注2)1994年、細川政権で「行政情報の公開に係る制度について本格的な検討を進める」と閣議決定。1998年、法案が国会に提出され、1999年に成立。正式名称は、「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」で、2001年に施行。
法制度の穴を埋めるジャーナリズム活動
しかしその後のていたらくは目を覆うばかりで、4半世紀が経ち空洞化は進み、しかもこの間、一度も実質的な改正がなされないために、3周遅れぐらいの情けない状況にある。
たとえば未だにデジタル対応はゼロで、申請も開示もすべてアナログである。また、情報公開の大前提は記録の保存と整理であるが、すでに様々な「事件」も発生しているとおり、主体となる政府は平然と公文書の廃棄・改竄・隠蔽を続けており、しかもまったく反省の色がないありさまだ。
多くの国ではまず記録法があり、その上に立って情報公開がなされるわけだが、日本の場合は公文書管理法(注3)ができたのが情報公開法に遅れること10年。開示の意識も希薄だが、そもそも記録を残すという意識が社会全体に欠如したままだ。その結果、政府は「重要な会議ほど記録を残さない」という悪い慣習を維持し続けている。
(注3)公文書等の管理に関する法律(2009年)は第1条で、「国及び独立行政法人等の諸活動や歴史的事実の記録である公文書等が、健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用し得るものであることにかんがみ、国民主権の理念にのっとり、公文書等の管理に関する基本的事項を定める」と定める。
そもそも法制度上、文書の保存も開示も「行政文書」に限定されており、国会や裁判所にはこれらの義務はない。その結果、公開の法廷で行われる法廷の結論である判決文ですら、原則は非公開で裁判所自身が重要と思ったもののみ、マスキングが施された上、ウェブサイト上で公開されているにすぎない。
報道機関が判決内容を報じられるのは、あくまでも当該裁判所が「サービス」で法廷終了後に要旨や全文を配布するからである。今日現在の法解釈の基礎を作った重要な裁判の判決文を含む裁判資料でさえ、裁判所自らの手でごっそり廃棄されていたことも明らかになった(注4)。
(注4)最高裁判所「裁判所の記録の保存・廃棄の在り方に関する調査報告書」2023年5月。
だからこそ、ジャーナリズムの役割が他国に比して日本は一層重要になってくる。行政機関の重要な会議の内容は、報道されることで初めて社会に知らされ、記録として残ることになる。報道機関に配布された判決文は、いち早く新聞や放送で報じられ私たちは内容を知ることになる。本来であれば、きちんと記録・公開される制度が完備されていれば違った展開もあるわけだが、悲しいかな日本では、ジャーナリズム活動によって、社会の構成員たる市民が知っておくべきことの最低ラインをかろうじて守っているわけだ。
そして同じことは行政機関の1つである警察や検察にも当てはまる。一市民が公権力により身柄を拘束されること、公訴されることは一歩間違えば、極めて重大な人権侵害となりうる。逮捕状や起訴状は事後的であっても公文書として開示の対象になってもおかしくない代物である(実際、情報公開の対象である国も少なくない)。
しかし日本では、今般の再審法改正でもわかったように「司法の権威」を守るために絶対的な情報コントロール権を公権力が有し、それを手放すつもりは全くない(注5)。
(注5)再審法案(刑事訴訟法の一部を改正する法律案)が2026年6月に成立見込み。445条の5「再審請求者、弁護人又は弁護人であつた者は、前条に規定する証拠に係る複製等を、次に掲げる手続又はその準備に使用する目的以外の目的で、人に交付し、又は提示し、若しくは電気通信回線を通じて提供してはならない」と、新たに証拠の目的外利用を刑事罰付きで禁止し、報道を制限することになると危惧されている。2026年5月27日衆院法務委員会での小竹凱議員(国民民主党)の質問に対する佐藤淳刑事局長の答弁でも、記者会見で弁護団が開示された調書を全文読上げた場合は違反になる余地があると明言している。
法制度の瑕疵をマスメディアが尻拭いしているとも言えるし、全国あまねく取材網を敷いている報道機関に社会が甘えているとも言えるが、現実としてジャーナリズム活動が法社会制度に組み込まれて、総体的に社会全体で公的な情報を共有する仕組みが出来上がっているという現実がある。
こうした状況は選挙の仕組みにも言え、投票行動のための有益な情報提供の役割を立候補者に任せるのではなく、日本では特段にマスメディアの「選挙報道」に委ねる仕組みが出来上がっている(注6)。
(注6)選挙報道については別の回に詳述するが、候補者の表現活動=選挙活動を厳しく制限する代わりに、マスメディアの表現活動=選挙報道に大きな自由を与え、総体として選挙期間中の有益な選挙情報が社会に行き渡る仕組みを構築している。政見放送や選挙広告といった、新聞や放送を通じた世界に類を見ないユニークな情報提供もその1つ。
事件事故を記録し伝える役割
みんなが知っておくべきことをきちんと伝える――その「知っておくべきこと」こそが公共情報(パブリック・インフォメーション)であって、その中核にあるのが「基礎的公共情報」と呼ぶべき事実(ファクト)ということになる。
事件事故においては冒頭の5W1Hの中でもとりわけ「だれ」は事実を確定させる上でも最重要で、特定のためには「氏名」とともに、付随情報である「年齢、職業、性別、住所」が求められることもあろう。ちなみに、それらをどう伝えるかは次の段階で考えるべきことである。
犯罪加害者であれば、誰が捕まったのかは憲法で保障された人身の自由を奪う公権力の権力行使であるという意味で、名前が特定される必要がある。
一方で被害者(犠牲者)の場合は、関連するコミュニティで故人を悼み悲しみや痛みを共有する上で、やはり名前は社会で共有すべき基礎的な公共情報と言える。戦争や災害あるいはパンデミックでの犠牲者も、当然同じであって、記号や仮名、あるいは犠牲者総数では、その人の生きていた証しを当該コミュニティで共有することは困難だ。繰り返しになるが、共有を原則とした上で、人権配慮等の伝える工夫が求められるということになる。
こうした社会的な役割をジャーナリズム活動が担うことは、世界共通である。しかし先に触れたようには日本には独自の事情があり、日本のジャーナリズムはより重たい責務を負っていることになる。
しかも放送や新聞といった<マスメディア>が社会に存在していることによって、基礎的公共情報を入手しやすい環境を整備してきた。たとえば、全国どこで起きた事件や事故でも、すぐに現場に記者やカメラマンが駆けつけることができるような取材網を維持し続けてきたこともその1つだ。
実はこの事実報道の大切さは、「実名」報道の議論と直結している。80年代以降とりわけ、加害者・被害者などの名前に焦点が当てられ、この是非がメディア不信の要因でもあり続けている。しかも、報道される側の思いと、報道する側の主張は平行線で、なかなか交わらないのが現実だ。
実名報道の必要性については、これまでもすでに多くの理由付けが示されてきている。記録性や権力監視機能、さらには人としての尊厳の表象のほか、正確性の担保、悲惨さや悲しみの共有(共感、同情など)によって累犯防止や構造的課題の解決などへの効果もあるに違いない(注7)。
(注7)日本新聞協会「実名報道に関する考え方」2022年3月、新聞協会ウェブサイト「プレスネット」
ただしここではこれまで見過ごされがちだった、名前はそもそも社会で共有すべき基礎的公共情報であるという視点を加えておきたい。
人が個人として尊重される上での基礎であり、個人の人格の象徴なのが名前である。それゆえ名前は個人情報そのものであり保護されるべき対象でもあるわけだが、絶対秘のセンシティブ情報や原則秘のプライバシー情報と比べると、相対秘とでも言うべき「パーソナル情報(個人識別情報)」のカテゴリーに位置づけられるものである。
だからと言ってもちろん、勝手にむやみに公開(報道)してよいという理屈には全くならないものの、プライバシーを理由に一義的に報道が許されないものではない、ということでもある。
あくまでも「基礎的公共情報」として社会全体で共有すべきものであるという原則に立って、いつ、どのように報道していくかといった「工夫」(例外的措置)をしていく対象であるということを確認しておきたい。この原則と例外の関係は、ジャーナリズム活動における基本的な立場でもある(その2に続く)。
<執筆者略歴>
山田 健太(やまだ・けんた)
専修大学ジャーナリズム学科/大学院ジャーナリズム学専攻教授。
専門は言論法、ジャーナリズム学。
自由人権協会代表理事、日本ペンクラブ副会長。放送批評懇談会、情報公開クリアリングハウスなどの各理事を務める。BPO人権委員会など歴任。
主な著書に、『法とジャーナリズム 第4版』(勁草書房)、『ジャーナリズムの倫理』(いずれも勁草書房)、『沖縄報道~日本のジャーナリズムの現在』(ちくま新書)、『転がる石のように~揺らぐジャーナリズムと軋む表現の自由』(田畑書店)ほか多数。
専修大学で一般公開の「表現の自由研究会」を開催中。
【調査情報デジタル】
1958年創刊のTBSの情報誌「調査情報」を引き継いだデジタル版のWebマガジン(TBSメディア総研発行)。テレビ、メディア等に関する多彩な論考と情報を掲載。原則、毎週土曜日午前中に2本程度の記事を公開・配信している。
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