
8月15日は終戦から81年。過酷な体験により、心を壊されていった兵士たちは今なおその苦しみの中にいます。
元兵士だけでなく、子や孫にまで連鎖する戦争トラウマ。私たちはその実態を取材しました。
【写真を見る】兵士の精神疾患は「恥」 隠蔽された“戦争トラウマ” 社会と家族に見捨てられた元兵士の孤独【報道特集】
106歳の元兵士が語るインパール作戦「最初から帰れると思わなかった
新潟県村上市を北に向かいます。実際の戦場を体験した方が存命だと聞いたからです。
――お名前と生年月日、お年を教えてください
佐藤哲雄さん(106)
「佐藤哲雄。大正8年9月19日生まれ。106歳だな」
佐藤哲雄さんは、先の大戦で「最も無謀」と言われたインパール作戦を生き抜いたひとりです。
1944年3月~7月に行われた「インパール作戦」。それは敵の補給路を断つため、要衝である「インパール」を攻略する作戦でした。しかし、過酷な地理的条件と、兵站を無視した作戦に当初から苦戦を強いられました。
佐藤さんの足には、戦場で受けた傷跡が生々しく残っています。
佐藤哲雄さん(106)
「弾があたったのはここだよ。2か月も3か月もたって(病院)行ったから、ここが腐って、ここまで弾が下がった」
怪我は物量に勝るイギリス軍の砲撃によるものです。佐藤さんの軍歴書には、「這うようにして野戦病院に向かい、弾の摘出手術を受けたのは3か月後のことでした」と、当時の状況が記されています。
佐藤哲雄さん(106)
「手足をしっかりしばって、麻酔も何もねえんだ。そのまましばりつけて。痛え、痛えと泣けば、軍医が何言うかと思えば『泣け泣け泣け、泣けば治る』と言う」
手術からわずか3日で退院。最前線に戻されますが戦況は悪化の一方で、「転進=撤退」を余儀なくされます。
悲劇は戦闘時より、むしろ撤退の時に起きました。食糧も薬もない、餓えと病で兵士が次々と倒れていきました。
佐藤哲雄さん(106)
「飲むものはねえ、喰うものはねえ、マラリアにかかった病人だから、どこを頼るかというと、人間である以上は『道路』を頼るんだよ。インパール街道にジャングルにいた奴も出てくるんだよ。誰から通れば連れて行ってもらおうと思って」
ようやくジャングルを出てきた兵士を待っていたのは、仲間ではありませんでした。
佐藤哲雄さん(106)
「ハゲタカだよ。わざと体当たりしてくる。フラフラしてる(兵士)に当たるだろ、倒れるだろ、倒れると上に何羽もいるから、スーッと下りてきて、人間をこうだ…」
遺体が累々と横たわる道は「白骨街道」と呼ばれました。
結局、誰ひとりインパールにたどり着くことはなく、作戦は中止されました。
動員された兵力は10万、犠牲者は3万人以上にのぼりました。
佐藤哲雄さん(106)
「日本には勝ち目ねえんだと思ってた」
――インパール作戦は失敗するだろうと思っていた?
「最初から帰れる見込みはねぇと思っていた」
「戦争神経症」の兵士も…軍は存在を否定
第一次世界大戦が戦争の形を変えた。「総力戦」と呼ばれる国家をあげた戦いに、一般市民も最前線に送り出された。
戦車や機関銃、次々と投入される新兵器。長時間にわたる塹壕戦のストレスが兵士たちに重くのしかかった。
突然の痙攣や歩行障害などの症状は、「シェルショック(砲弾ショック)」と呼ばれた。
1937年7月、日中戦争が勃発。戦線の拡大と共に、日本の兵士たちにも精神的な変調を訴える者が増えていった。
過酷な戦争体験により、心を壊されていった兵士たちの貴重な映像が残されている。
その映像には手足の痙攣が止まらず、字がうまく書けない兵士や、コップの水を飲むことも難しい兵士、立ち上がったり歩いたりするのが困難で倒れてしまう兵士の姿も映っていた。
当時は「戦争神経症」と呼ばれ、痙攣や発作を起こす兵士も多かった。
だが、軍は「大戦名物の“砲弾病”皇軍には皆無」と、精神疾患の兵士はひとりもいないとして、その存在を否定した。
そんな兵士たちを国民の目からそらすため、軍はある施設に収容した。千葉県市川市に開設された「国府台陸軍病院」だ。
日中戦争が拡大した1938年から太平洋戦争が終わるまでの7年間、1万人を超える精神疾患の兵士たちを収容。全国から優秀な軍医を集め、秘密裏に研究も行われていた。
精神疾患の兵士はタブー視「名誉の負傷というよりも恥」
兵士たちのカルテのコピーが千葉県内の浅井病院に保管されている。
浅井病院 長沼吉宣さん
「8002人の病床日誌になります。終戦当時(軍から)『焼却処分しろ』という命令があったが、(浅井病院の)初代理事長の浅井利勇らが『焼却するには忍びない貴重な資料だ』と、ドラム缶に入れて庭のどこかに隠したらしい」
カルテを隠して今に残した軍医のひとり、浅井病院の初代院長・浅井利勇氏。自らの著書でこう述べている。
「これらの患者は、考えてみると大戦がなければ、或いは彼等が経験したような人生の悲劇をせずに済んだかもしれない」
利勇氏の孫にあたる現理事長・浅井禎之氏は次のように語ります。
浅井病院 浅井禎之理事長
「軍の命令に背くというのは、命がけの行為だったと思います。患者さん一人ひとりの叫びも刻まれていますし」
残された8002人分のカルテ。そこには戦地での加害行為などにより、精神に異常をきたした兵士たちの声が細かく記録されていた。
上等兵 29歳
「山東省に於いて良民六名を殺したることあり、之が夢に出てうなされてならぬ」
二等兵 24歳
「許して下さい、何も悪いことはしておらんです、殺されるようなことはしておらんですから」
戦場で負傷してから不眠の症状が現れた上等兵は。
上等兵 23歳
「どこからか父の声や兄の声が聞こえてきます。死ねと云うであります。今日は殺されるような気がして」
当時、精神疾患の兵士たちに有効な薬や治療はほとんどなかった。そんな中で頻繁に行われていたのが「電撃療法」だ。
1930年代半ばに開発された治療法で、こめかみに機械をあて、電気を流し、脳の機能の回復を促す。
戦後、国府台病院に勤務し、電撃療法を間近で見てきた元看護師の久保栄子さんは。
元国府台病院看護師 久保栄子さん(88)
「わーって叫ぶんです。そのあとすぐ体を横に向けて、もちろん固定してます、私たちも手で押さえたり。横になってから泡取って、窒息するから。電撃療法は患者さんは『嫌だな』って皆嫌がる。『治るから』って婦長さんが言って」
だが、症状の改善は難しく、原隊に復帰できる兵士は少なかった。
国府台陸軍病院の近くで生まれ育った平井宏冶さん(85)。
当時、地域では病院や兵士たちのことを語るのは、タブーだったと言う。
平井宏冶さん(85)
「箝口令というか、触らないんです。(親に)聞いても『知らなくていい』って言い方される」
軍はなぜ兵士たちの存在を隠そうとしたのか。戦争トラウマに詳しい専門家は…
埼玉大学 細渕富夫 名誉教授
「精神疾患については名誉の負傷というよりも『恥』。本人にとっても恥、郷里にとっても恥。少なく、見えなくすることが軍上層部の方針としてあったと思う」
世間は「“死んだも同然”の扱い」置き去りにされた元兵士たち
精神疾患を起こした兵士たちは戦後、どのような道を歩んでいったのか。
東京・小平市に開設された「武蔵療養所」。終戦の年までに1000人近い兵士が入所し、多くの人が何十年にもわたる、療養生活をここで送った。
兵士たちを30年近く支援してきた、元職員の古屋龍太氏に跡地を案内してもらった。
精神保健福祉士 古屋龍太氏
「入ってすぐここに大きな体育館があって、元兵士も参加した合唱祭が毎年行われていた。『ラバウル小唄』『麦と兵隊』など、昔の軍歌を歌った」
その光景を記録した映像が残されている。
1970年から15年間にわたり、TBSの吉永春子ディレクターが「武蔵療養所」の元兵士の姿を追ったドキュメンタリー。
1970年の放送「未復員」より
当時のナレーション「この療養所に“未復員”と呼ばれる人々がいる。戦争中、軍務に服しながら精神障害を起こした人たちがそれである」
ある元兵士は淀みなく、「軍人勅諭」を暗唱した。
彼らは戦後25年が過ぎても、戦争体験を引きずったまま、ここでひっそりと暮らしていた。
精神保健福祉士 古屋龍太氏
「皇軍の兵士としての自意識はとても強い方々が多かった。すでに戦後ずっと経ているのに、この意識は変わらないんだというのはとてもみんな不思議ではありました」
彼らを見てきた看護師たちが、当時の様子を語った。
元武蔵療養所 看護師 新美マスミさん(85)
「特攻隊帰りの人がいたね。あの人すごいいい人なんだけど、突然暴力的になるのね、カーッとなって。気の毒だった」
──皆さん、こういう方々に戦争のお話を聞いたことはありますか?
元武蔵療養所 看護師 北澤志津枝さん(86)
「30年、40年経っても、心の傷として残っているのがあるから、話さないけれども、やっぱり気持ちの中でね」
元武蔵療養所 看護師 新美マスミさん(85)
「片腕のない人がいたでしょ。シャキッとしてた人。あの人絶対言わなかったもんね。腕のことも言わないし、絶対言わなかったよ。多分本人のなかでは相当あったんだろうとは思うけどね」
武蔵療養所では、農業などの作業療法を取り入れ、元兵士たちの社会復帰を後押ししようとした。だが、彼らを「恥」とみなす世間の風潮は根強く、それは家族も変わりなかった。
――家族は面会に来ていた?
元武蔵療養所 看護師一同
「ないねえ…聞いたことない」
元武蔵療養所 看護師 新美マスミさん(85)
「もう預けたままという感じで、昔はもう“死んだも同然”の扱いだった。あんまり聞こえがよくないから。特に地方の人はね。ここは地方の人もいたからね」
30年ぶりの里帰りも拒絶され…「“二度殺された”ようなもの」
元兵士たちの中には、「生まれ育った故郷に帰りたい」と願う人も多かった。
元陸軍一等兵(1971年の放送「未復員の告発」より)
「(故郷のことはお思いになりませんか?)思います。(どういう風になっているんでしょうかね、今は?)さぁご存知じゃないですね。ずいぶん変わっていると思いますけども。もう20年も22年もいかないからね。(一度行きたいと思いますか?)はい、行きたいと思います」
1971年のゴールデンウィーク。病状の良くなったこの元陸軍一等兵の男性が、医師の付き添いで里帰りできることになった。
約30年ぶりとなる故郷にカメラは同行した。男性はこの日のために、貯金をはたいて背広を新調した。
玄関先で母親が出迎えてくれた。
その後、兄が漁から帰ってきたが、弟の顔をすっかり忘れていた。食事の場でも弟の顔を見ようともせず、ほとんど話もしなかった。医師が「退院できるようになったら家に引き取ってもらえるか」と尋ねたが、兄は断った。
里帰りは3日間の予定だったが、自分は受け入れられないと悟った男性は、翌日早々に故郷を離れ、東京の療養所に戻った。
その後、1985年に放送した「さすらいの未復員」。
社会や家族からも受け入れられず、結局、療養所で暮らし続けるしかなかった元兵士たちの老いゆく姿が記録されていた。
行き場のなかった彼らは、そのまま療養所で最期を迎えていった。
精神保健福祉士 古屋龍太氏
「故郷に帰りたい思いを持っていても、帰れない。きつい言葉かもしれないが“二度殺された”ようなもの。自ら訴えることなく、言葉を飲み込んだまま亡くなっていく方が圧倒的に多かった」
故郷に戻ることなく迎えた「孤独の死」朝鮮出身兵の戦後
心を病んだのは日本人だけではありませんでした。
李永吉さん(日本名・吉本永吉)は戦後も故郷の朝鮮半島に戻ることなく、日本の療養所で亡くなりました。
戦時中、スマトラで捕虜の監視にあたった李さんは戦後、戦犯となり懲役10年の判決を受けました。言動に異常が見られたのはこの頃です。
日本へ移送された後も症状は改善せず、千葉県の療養所の閉鎖病棟に移されました。
日本国籍を持たない李さんには恩給も出ません。
物心両面で支え続けたのが、朝鮮半島出身の戦犯仲間たちでした。
恵泉女学園大学の内海愛子名誉教授は、李さんを見舞ったことがあります。
恵泉女学園大学 内海愛子 名誉教授
「お土産のバナナを無心に食べていた。話をしないでひたすらバナナを食べている印象でした。インドネシアのスマトラ、その後戦犯となって拘留されたジャワは南方なので、バナナは彼の中にずっとあったのだと思います」
1991年8月の李永吉さんの死を伝える新聞の見出しには、「孤独の死」とあります。78歳でした。
半世紀にわたって社会から隔離された李さん。棺には戦犯仲間が新調した背広が入れられました。
李さんの遺骨はいま、東京・小平市の寺に安置されています。
遺骨を見守ってきた戦犯仲間たちは既に他界しました。
在日朝鮮人の尹碧巌住職が、李さんの遺骨と私たちを引き合わせてくれました。
国平寺 尹碧巌住職
「骨は言葉がないと思いますけど、血のつながりもない人たちがお骨ひとつの問題に携わってくれるので、その喜びの声が聞こえるんですよ」
李さんは日本の戦争責任を負わされ、心も傷つけられました。
戦後81年、その事実は忘れ去られようとしています。
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