終戦の日、もし自分が異国の地に置き去りにされたら。国策のもとおよそ27万人が渡った「満州国」の崩壊で、取り残された多くの日本人女性たち。「中国残留婦人」として過酷な運命を生き抜いた、97歳女性の証言です。
【写真で見る】激しい飢えと闘い…「満蒙開拓団」を描いた絵日記
暴行や略奪から逃れ…「満州国」解体で中国に取り残された女性たち
長野県の満蒙開拓平和記念館に展示されているパネル。カメラに向かって笑顔で手を振る女性たちの写真には「残留婦人」と記されています。
「残留婦人」とは、日本の傀儡国家「満州国」が敗戦で解体され、中国に取り残された日本人女性のことです。
満蒙開拓平和祈念館のスタッフ
「帰りたくても帰れなかったり、中には、生き残るために向こうで婚約者を見つけて婚約して、生き残ったという人もいる」
満州国が中国東北部に建国されたのは1932年。日本全国から国策で27万人が「満蒙開拓団」として送り込まれました。しかし、1945年8月9日、旧ソ連が満州に侵攻します。
高知県四万十町の施設に残された絵日記には、若い男性が兵隊に行き、高齢者や女性、子どもばかりが残されていた開拓団の様子が描かれていました。
ソ連兵などからの暴行や略奪から逃れるため、激しい飢えや渇きと闘いながら、帰国を目指し逃避行を強いられました。
“死ぬならそこで死になさい” 家族失い、飢えと闘った16歳の少女
さいたま市の佐藤千代さん(97)も、絵日記と同じような経験をしました。
16歳のとき家族とともに100キロ離れた町に向かいますが…
佐藤千代さん
「(道中の)川は流れが急で、赤ちゃんをおぶっていたら、死んでも死んでも死にきれないほどの人が、渦巻きになった中で死んでいく」
険しい山道を何日も歩く中で、大勢の人が衰弱して亡くなりました。
佐藤千代さん
「歩けなくなったら、そこでおしまい。誰もかばう人もいない。“死ぬならそこで死になさい”と」
そしてある日、千代さんの母親が。
佐藤千代さん
「畑の中に入っていったんです。お母さんって2、3回呼んだが振り向かない。黙って見送ってた。これでお別れだと思ったんです」
そのまま、帰ってきませんでした。
祖父も道端で黙って横になり、息を引き取りました。
1か月歩き続けてようやく収容所にたどり着きますが、激しい飢えに苦しみ、さらに死者は増えていきました。
佐藤千代さん
「(体中の)シラミが痒いとか、そんなこと考えるひまがない。ただひとつ、何か食べたい…」
「身体を犠牲に」トウモロコシと引き替えの結婚生活 残留婦人の戦後
そんな中、ある中国人が、千代さんの兄に、「トウモロコシ20キロと、千代さんを取り替えてくれ」と持ちかけます。
当時、中国東北部では、結婚できない貧しい男性が食料などと引き替えに、困窮する日本人女性を妻にすることがよくあったのです。
佐藤千代さん
「私が死ぬ思いして嫁に行かなかったら、一家を誰が養うの。(兄たちに)食べさせてやるために、私はこの身体を犠牲にしたの」
千代さんには子どもができましたが、貧しく、働きづめの結婚生活でした。
佐藤千代さん
「(家には)なんにもない。あの時なんにもないの。(食べ物を)どこかから借りて、どこかから盗んで、そういう風に暮らして」
「日本に帰りたい」。しかし、1953年の「集団引き揚げ」では、当時の国籍法により「中国人男性との間にできた子どもは連れて帰れない」と言われ、帰国はあきらめました。
佐藤千代さん
「その2人の子どもを捨てろっていうんだよ。子ども殺してから帰るなんて、そんな親がいるかい」
中国残留婦人の女性(97)が伝えたいこと「どうにかして平和に暮らして」
その後、日本政府は終戦当時12歳以下の「中国残留孤児」については、肉親捜しなど支援を始めます。
一方、13歳以上だった「残留婦人」たちは「自らの意思で中国に残った」とされ、肉親捜しの対象外とされるなど支援は限定的でした。
中国で生活基盤ができていた千代さん。
日本に肉親がいましたが、永住帰国は1991年になってからでした。
佐藤千代さん
「『あんたが好きで残った。満州へ行った。 お嫁になりたかったんでしょ』と言われた時、返す言葉もなかった。黙ってた」
改めて伝えたいことがあると、千代さんは話します。
佐藤千代さん
「戦争にならないように若い人たちには頭を使って、どうにかして平和に暮らしてもらいたいね」
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