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張本勲さん“最後のメッセージ” 語り続けた自らの被爆体験「姉さんを思い出す、このケロイドを見ると」“核兵器がなくなった”と聞いて息絶えたい…【サンデーモーニング】

国内
2026-09-13 14:17

広島で被爆した張本勲さんは、自らの体験をもとに平和の大切さを訴え続けました。張本勲さんが私たちに話した思いを改めて考えます。


【写真で見る】「大人になって初めてお袋の苦しさ、原爆の悲惨さをかみしめましたよ」」張本勲さんが語る“被爆体験”


「沢山の子どもが野球できるような環境を」張本勲さんの思いの背景とは

張本勲さん(2024年)
「そう。スタンスは狭いし、ステップも良いし」


野球教室で子どもたちに語りかける張本勲さん。長年熱心に教え続ける理由をこう語っていました。


張本勲さん
「平和だからできるのであって、なるべく沢山の子どもが野球できるような環境を、我々大人が作ってあげないと」


その思いの背景にあるのが、自らの被爆体験でした。


姉は全身焼きただれ… 語り続けた被爆体験

2024年、核廃絶を訴えてきた日本被団協が「ノーベル平和賞受賞」を受賞。


張本勲さんはそれについて…


張本勲さん
「(受賞は)ほっとしましたね。感謝してますよ。だけどもう少し早くもらいたかったですね。亡くなった先人たちにも聞かせてやりたかったです」


朝鮮半島出身の両親のもと、1940年に広島で生まれた張本勲さん。母親は、ほとんど日本語が話せない中、4人の子どもを育てていました。


そして5歳となった張本さんが迎えた、1945年8月6日。


張本勲さん
「友達と遊ぶために(家を)出ようとした。ぱあっと光ってドン。いわゆるピカドン。『なんかな?』と思ったら、お袋が(私と姉に)被さって、私たちを助けてくれた。白い洋服でしたから真っ赤に。ガラスの破片とかが刺さって血がにじんでいた」


自宅の玄関先で浴びた閃光。張本さんは、母親にかばわれ無事でしたが、爆心地から2キロしか離れていない家の周りでは…


張本勲さん
「大きな声で叫ぶ人、苦しいから。熱い、痛い。それで私らの前を走って行く人。近くにドブ川があったんですよ。熱いからそこへ飛び込むんですね。みんな亡くなるんですよ」


このとき、外出していた6つ年上の姉・点子さん(長女)は爆心地近くで被爆。全身に火傷を負い、家に運ばれますが…


張本勲さん
「全身焼きただれてね、『おかあちゃん痛いよ熱いよ苦しいよ』と言いながら看取ったんですから。いかにお袋が苦しかったか。子どもの頃は分からなかったけど、大人になって初めてお袋の苦しさ、原爆の悲惨さをかみしめましたよ」


中学から始めた“野球”で転機 しかし、原爆症への恐怖と被爆者差別も…

戦後、学校ではけんかに明け暮れ、広島弁で「ごんた=暴れん坊」と呼ばれた張本勲さんでしたが、中学で始めた野球が人生を変えます。


父が亡くなり貧しい暮らしの中、1人で自分を育ててくれた母親。「母にいい暮らしをさせたい」そんな思いからいつしかプロ野球を志します。


日夜、猛練習に励み、高卒でプロに入団。すぐに目覚ましい活躍を見せますが、その陰で常に怯えていたのが…


張本勲さん
「ちょっと体調の悪い時があるじゃないですか。そんときでもやはり、ふっと浮かびましてね。ひょっとしたら“原爆症”じゃないかなと」


年に1度の健診の度に恐怖に駆られ、軽い咳や腹痛でも原爆症と結びつける日々だったといいます。


さらに張本さんを苦しめたのが、被爆者への差別。


張本勲さん
「『近寄るな』『うつるから』と。なぜそんなこと言ったのか分からない。うつるわけないんだから。そういう差別がありました。(現役時代は)被爆者ということは隠していた、言わなかったです」


被爆体験を語る“きっかけ”となった一通の手紙 伝えたい思いとは…

自らの被爆について口を閉ざした張本勲さん。そこに訪れた転機とは…


60代になった張本さんは、新聞社に頼まれ、原爆についての記事を寄せます。


毎日新聞(2006年10月)
「8月6日は大嫌い。法律でなくして、5日の次は7日にしてほしいぐらいだね」


この記事を見た小学生の女の子から届いた一通の手紙が、張本さんの背中を押しました。


張本勲さん
「小学校の女の子が手紙をくれまして、『逆でしょう、8月6日はなくしちゃだめですよ。終生忘れない』って言われて、はっとしました」


原爆と向き合うことから逃げていた自分に気付いた張本さん。これまでつらくて、行くことができなかった原爆資料館に足を運んだのです。


黒焦げの三輪車、そして、やけどを負った人たちの写真。すべての展示に足をとめたといいます。


張本勲さん(2014年・広島平和記念資料館)
「姉さんを思い出す。このケロイドを見ると…ひどい」


偉大なプロ野球選手として、そして、被爆者としての人生を歩んだ張本さん。


張本勲さん
「野球に出会えたことで私の人生は救われたといってもいい。しかし、私は、原爆の日のことを忘れたわけではありません」(『張本勲 もう一つの人生』より)


被爆体験を伝えることのできる最後の世代として、張本さんは語り続けました。


張本勲さん
「私らが最後のメッセンジャーでしょう。悲惨な姿、光景、人間、物、自分の目で見てるし、体験したからね」


原爆の被害は広島・長崎を最後にしたいと語っていた張本さん。


張本勲さん
「被爆者にとっては、死ぬまで戦争は終わっていない。『地球上から核兵器がなくなった』という一言を聞いて息絶えたいんだ」


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