
演歌歌手の大江裕さん(36)がスペシャルコンサートを開催し、TBSの独占インタビューに応じました。
幼少期から歌に情熱を注ぎ、北島三郎さんの事務所からデビューを果たした大江さんですが、その道には病との壮絶な闘いがありました。
【写真を見る】独占【 大江裕 】 パニック障害を乗り越えた 師匠・北島三郎との絆 「先生がいなければ今の自分はなかった」
去年、念願だったという36歳になった大江さんは、コンサート直前「この歳を迎えることができたということは、夢でございました。幼い頃からの夢だったんです。36歳になりたいという夢がございまして」と告白。
その理由として「36歳ということは北島三郎先生の(36「サブロー」の語呂合わせの)歳でもございますので、この36という数字になったからには、ここからがスタートなんです」と力強く宣言しました。
コンサートでは師匠・北島三郎さんの曲を11曲披露。北島さんについて「僕はもう神様と思ってます。先生がいなければ今の自分、歌手として大江裕はいなかったと思うんです」と断言。
そう話す大江さんの歌の原点は、祖父との練習にあるといいます。
小学生の頃から、週末になると祖父と歌の練習を重ねてきた大江さんですが「おじいちゃんはいつまでたっても褒めなかったです。歌、今日良かったなって絶対言わなかったです」と振り返ります。
カラオケ大会で歌っている最中にも、客席の祖父がバツ(×)のサインを出したというエピソードを笑いを交えながら明かしました。「歌ってる途中ですよ。もう元気なくなりますよね」と苦笑い。
それでも、歌うことが嫌にはならなかったと言い「(おじいちゃんの家に行く)金曜日になるのが楽しみでした。歌いに行きたいなというのがありましたね」と当時を懐かしみました。
人生の転機となったのは16歳のとき。
TBSの番組「さんまのSUPERからくりTV」を観ていた大江さんは「『歌自慢募集』って(画面にテロップが)パッと出たんですよ。出たんですけど、メモ帳出してるうちにパッと消えるんですよね」と、テレビ画面に映った告知を逃した瞬間を語りました。
それでもあきらめず東京のTBSに直接電話をかけ「ちょうど(電話を)取った方が担当者の方で、電話をしなければ(今の)僕自身なかったのかなあ」と、その行動力が出演のきっかけになったことを明かしました。
番組では、北島さんの曲の替え歌なども披露し「16~18歳といろんな経験もさせていただいたり」と貴重な10代を過ごしたと話します。
高校を留年した際には「まつり」の替え歌で「ダブりだ、ダブりだ、ダブりだ、留年まつり」と留年という苦い経験さえも『まつり』の替え歌にして周囲を明るくさせたエピソードも紹介し、「でも目標があったから歩いてこれたのかな」と前向きに受け止めていたことを伝えました。
こうした歩みの末、北島音楽事務所からプロデビューを果たした大江さん。
デビュー曲「のろま大将」は北島さん自身が作曲した楽曲であり、「(作曲に北島三郎さんの別名義の)原譲二って書いてあって・・・『え!? 北島先生じゃないですか!』ということで、一生懸命それを覚えて、本当に幸せですね」と喜びをかみしめました。
デビュー後は1日で1000枚のCDが売れるほどの反響が。
コンサートの最前列に高校生が座っていたことも、大きな喜びだったと語りました。
「どこ行ってもありがとうございます、ありがとうございます。もうこれしかなかったですね」と当時の感謝の気持ちを明かしました。
しかしデビューからわずか1年、大江さんは歌えなくなってしまいました。
2010年11月18日、鹿児島・鹿屋でのコンサート中に「のろま大将を歌いきって、頭を下げて上げた瞬間に後ろに倒れそうになった」と回想。
大江さんは、過呼吸と強烈なめまいに見舞われ、舞台袖で意識を喪失。
その日の公演は中止となってしまいました。
病院で検査しても身体的な異常は見つからず。
そこで、心療内科を受診したところ「重度のパニック障害」と診断。
さらに医師からは「休業するより辞めた方がいいと思います、歌手をね」と告げられたといいます。
「いや、決断できないもんですよ。いや、『もう、辞めます』って言ったら、そこで終わりですから」と、当時の葛藤を吐露。
それでも「続けたいです。できれば続けてみたい」と事務所の社長に訴えたといいいます。
何日も思い悩む日々が続いたある日、北島さん本人から「事務所に来なさい」と電話が入ります。
「もう自分自身、先生のトーンも低かったので、辞めろっていうことだな」と最悪の事態を覚悟しつつ、北島さんのもとへ向かった大江さん。
会長室の扉を開けた瞬間に土下座。
「『申し訳ございません』って頭下げて。そしたら、先生が頭をずっと撫でるんですよ」と振り返ります。
北島さんから「裕、頑張ったなー。今休む時期なんだよ。俺はお前の歌をもう1度聞いてみたい。そして俺のそばにいないか。俺の付き人をやれ、俺と旅に行こう」と声をかけられたことを明かしました。
全国公演に付き人として同行した大江さんに、北島さんはさらなる支援を。
大阪公演では、舞台袖にいた大江さんを呼び出し「今日は大江裕が袖にいますんで、出てきてちょっと言ってみろ」とステージに立たせてくれたといいます。
また、公演後にホテルに戻ってからも「ピアノで練習。こう弾いてね、裕、これちょっと歌ってみなとか、これやってみな」と、北島さん自ら、ピアノを弾いて練習に付き合ってくれたと語ります。
声が出なくなっていた大江さんは「先生と一緒に『ハー』とか言いながら、笑いながら」と練習を続けるうちに少しずつ声を取り戻していきました。
さらに北島さんは、ある日メモ帳に、新曲の歌詞を書き取るよう大江さんに指示。
「季節は流れて ふる里はいま 変わる景色は 春模様 無事か達者か 親父お袋は」…その後も書き取りは続き、ついに歌詞が3番まで完成。
すると、翌日、北島さんは「これちょっと入れてみなって」とデモテープを差し出しました。
そして、曲の3番に「くじけてなるか 立ち上がる 我慢男の 光る目が」という歌詞が出てきた瞬間、北島さんは「裕、それ裕の再出発の曲だよ」と告げたといいます。
その曲名は「ふる里は いま… 」。
北島さんの「お前も辛かったな。次は皆さまに元気を送らないとダメだ。裕、練習だと思ってレコーディングすればいいから」という言葉に背中を押され、大江さんは再び歌うことが出来たのです。
大江さんは当時を振り返り「先生がいないと、あれは乗り越えられなかったですね。先生に救われたっていうのがやっぱり大きい」と、感謝の言葉を重ねました。
大江さんは、北島さんの名曲をカバーしたアルバムを発売。
「先生の名曲を一度でいいから僕自身アルバムにしたかった」との思いを打ち明け、北島さんからの承諾が得られたときは「天に昇る気持ちでしたね」と喜びを表現。
北島さん本人からも「聴いているけど、よく歌えてるよ」と評価を受けたといい、周辺から「声が似てるね」と指摘されると、「北島さんに似てるねって言われると、うれしくてたまらないんですよね。その人を目掛けて、僕は来てるので、近づいているんだととります」と笑顔。
最後に、「今後の目標」について大江さんは、「演歌を若い世代に届けたい」という思いを語りました。
小学生とか中学生に「演歌ってどんな歌なんだろうと、調べていただいて、演歌の良さを知っていただければ、僕の歌をきっかけで」と期待。
更に、大江裕さんは、演歌に対して「『演じる歌』でもあり、『艶歌』もいいんじゃないかな。『縁歌』もいいんじゃないかな。いろんな『演歌』というものを歌っていきたい」と、その想いを語りました。
36歳の出発点に立った大江裕さんの挑戦は、まだ始まったばかりです。
【担当:芸能情報ステーション】
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