【追悼】もう一つのロッキード事件 真の狙いは“秘密代理人”児玉誉士夫のルート、軍用機「P3C」売り込みだったのか…「なぜかP3Cの捜査資料は抜き取られ」堀田力弁護士が語った捜査秘話 平成事件史(22)
1976年、日米を揺るがす戦後最大の疑獄、ロッキード事件が幕を開けた。
ロッキード社――世界屈指の軍用機メーカーであり、アメリカ「CIA」との繋がりも深く、「CIA」の偵察機や米軍の航空機を手掛けていた。
東京地検特捜部は当初、ロッキード社の秘密代理人であり、戦後の政財界の「フィクサー」と呼ばれた大物右翼、児玉誉士夫に流れた「21億円」に注目、軍用機である対潜哨戒機「PC3」の売り込み工作が、同社の真の狙いではないかと見ていた。
さらに児玉に最も近い政治家と言われた元防衛庁長官で中曽根康弘自民党幹事長(当時)の名前も浮上していた。
当初、政府は念願だった日本メーカーによる「対潜哨戒機」を国産化する方向で、大蔵省が予算付けなどを進めていた。
これに対してアメリカは『勝手なことはさせない』と反対する。そんな中、田中角栄政権が誕生、政府の国防会議は「国産化」を「白紙撤回」したのである。
その結果、日本はロッキード社の対潜哨戒機「P3C」の輸入を決めるに至った。
しかし、本来こうした「P3C」導入をめぐる疑惑の解明をめざずはずだった「児玉ルート」はいつの間にか、捜査線上から消え、それに代わって、民間旅客機「トライスター」導入をめぐる「丸紅ルート」が急浮上。
そして、田中角栄元総理が丸紅を通じて「5億円」のワイロを受け取っていたことがわかり、ロッキード事件の捜査は決着したのである。
(20)(21)に続いて本稿ではロッキード事件の捜査や裁判に長く関わった堀田弁護士に感謝と哀悼の意を込めて、「本命」と見られていた軍用機の対潜哨戒機「P3C」めぐる疑惑に光を当てる。なぜ「軍用機利権」の疑惑は闇に葬られたのか、あらためて関係者の証言や資料を紐解きながら、戦後最大の闇の一端に迫る。
もう一つのロッキード事件「P3C」が公文書に記載
ロッキード事件のニュースが、連日テレビや新聞で報じられていた1976年の夏。
筆者は小学5年生の野球少年だった。はっきり覚えていることは、テレビのニュースを読んでいるアナウンサーが「田中角栄元総理大臣」のことを「田中は〜」「田中が〜」などと、「呼び捨て」にして、連呼していたことだった。
そのとき、母と次のような会話をしたような記憶がある。
「なんで総理大臣やのに呼び捨てにしとるの」
「それは悪いことして捕まったからや」
「悪いことすると、テレビで呼び捨てにされるの」
「そうや」
「どんな悪いことしたの」
「よくわからないけど、外国の飛行機の会社からお金をもらってたらしいよ」
「これからどうなるの」
「どうなるんやろね。木村さん(旧三重1区の衆議院議員)大丈夫やろか、田中さんのときの外務大臣やで」
「へーそうなんや」
この会話には二つの説明が必要だ。
一つは、一国の宰相、総理大臣だった政治家が「田中」と「呼び捨て」にされていたことは、小学5年生だった筆者にとって、事件の重大さを実感させる、強烈な印象として刻まれた。
当時、逮捕された人物はニュースの呼称はすべて「呼び捨て」の時代だった。
しかし、「人権尊重」への意識が高まるにつれ、テレビ局や新聞各社は犯罪被疑者の「呼び捨て」を廃止し、「〇〇容疑者」と表記するようになった。
これが完全に定着したのは、筆者が社会人になった1989年以降のことである。
もうひとつの記憶――「木村さん」とは、田中角栄内閣で外務大臣を務めた木村俊夫議員のことだ。佐藤栄作内閣では「沖縄返還」に尽力し、外務大臣として初めてアフリカ大陸を訪問するなど、外交の分野でも活躍した。
筆者の地元では「クリーン」なイメージで親しまれ、支持も厚く田中角栄とも近い有力国会議員だったが、幸いにもロッキード事件とは無縁だった。
そんな会話を交わしていた小学生が、後にロッキード事件の捜査に携わった堀田弁護士と番組出演やインタビューを通じて、ご縁をいただくことになるとは、まさに不思議な巡り合わせである。
ロッキード事件の発端は1976年2月、企業の不正を追及するアメリカ議会上院の多国籍企業小委員会公聴会が、突然明らかにした衝撃の事実だった。
「世界最大の軍需企業、ロッキード社が、世界各国の秘密代理人を通じて、政府高官(政治家)にワイロをばらまいて、軍用機や民間機を買わせていた」
「日本の代理人、児玉誉士夫に21億円、丸紅に5億円、その先は政府高官に流れた」
「ロッキード社が受け取ったヒロシ・イトー(丸紅専務)の領収書がある」
贈賄側がロッキード社とその日本代理店、丸紅であることは明白だった。
しかし、日本の検察当局が本格的に捜査を進めるためには、アメリカ司法省の協力が不可欠だった。
「捜査資料」を入手し、ロッキード社幹部らを「嘱託尋問」――すなわち、現地での取り調べを行う必要があった。
この任務を託されたのが、当時、法務省刑事局に在籍していた堀田力だった。
堀田は「極秘渡米」を命じられ、米司法省との交渉に臨んだ。途中で東京地検特捜部に異動し、本格的に捜査班に加わることになる。
交渉の結果、アメリカ側は捜査のためだけに限定して使うこと、いわゆる「政府高官名」(大物政治家)は公表しないという条件で、「捜査資料」の提供に同意した。
帰国後、届いた捜査資料を解読していた堀田が見つけたのは、ロッキード社のコーチャン元副会長が手書きした「人物相関図」だった。
そこには「TANAKA」(田中角栄)の文字が記され、同社から丸紅の檜山社長、大久保専務、伊藤専務を経由したカネの流れが、生々しく矢印で示されていた。
しかし、アメリカにいるコーチャンらの取り調べは容易ではなかった。
そのために、日本の検察と裁判所は、前例のない異例の司法取引を決断せざるを得なかった。
コーチャンらに対し「証言した内容が違法だったとしても起訴しない」という刑事免責を保証したのである。
「嘱託尋問」は、こうした異常とも言える条件のもとでようやく実現し、堀田はコーチャン元副会長、クラッター元日本支社長の尋問に立ち会った。
そして、この「嘱託尋問」の依頼に際し、日本の検察が米側に提出した公文書――「証人尋問請求書」の文面が、事件の本質を決定的に示していたのである。
1976年5月22日付ーー検察が作成した「証人尋問請求書」には、ロッキード社が売り込みを狙ったのが「トライスター」だけでなく、軍用機の対潜哨戒機「P3C」も含まれていたことが淡々と記されていた。
そこには、この事件の核心が刻まれていた。
TBSが入手した「証人尋問請求書」には、次のような被疑事実が記されていた。
当然ながら、この段階では被疑者の具体名は伏せられ、「氏名不詳の政府関係者、高官、国会議員」 として記載されていた。
《被疑者らは、航空機の選定・購入の決定に関する「職務権限」を有する立場でありながら、ロッキード社製の「トライスター」および「対潜哨戒機・P3C」の販売代理店である「丸紅」の檜山、大久保、伊藤らから、両機の選定・購入を取り計らうよう請託を受けた。
これに関する謝礼の趣旨で供与されることを認識しながら、1972年10月頃から1974年中頃までの間、数回にわたり、多額の金員を収受した》
(証人尋問請求書)
つまり、特捜部は田中角栄逮捕わずか2カ月前の時点まで、民間旅客機「トライスター」の売り込みと同様に、軍用機の対潜哨戒機「P3C」の売り込み工作についても、重大な容疑として捉えていたのだ。
そして、その被疑事実を米国に示し、「嘱託尋問」を正式に請求していたのである。実際に特捜部は「P3C」の疑惑について、防衛庁関係者らから「参考人聴取」を行うなど、捜査を進めていたという。
児玉誉士夫と政界
米公聴会でロッキード社の「秘密代理人」と名指しされた男、児玉誉士夫。
児玉とは一体、何者だったのか――。
前述の通り、戦後日本の「政財界」や「裏社会」のあらゆる情報に通じた「昭和の怪物」「フィクサー」と呼ばれた大物右翼の児玉誉士夫。その影響力は、政治の中枢にまで及んでいた。
当時のTBS報道番組(「1977参院選」)は、児玉と政治家の密接な関係について、次のように伝えている。
「児玉は1941年、あの大衆右翼の首領と言われる笹川良一の紹介で海軍の戦略物資調達にあたる『児玉機関』を設立。
1945年の終戦時に『32億円』とも言われた巨額の資産をもとに、『鳩山一郎』の新党結成(後の自民党)のために政治献金をしたことが政界と繋がるきっかけになった。
『A級戦犯』として『巣鴨プリズン』を経て、1953年、吉田内閣の広川弘禅を抱き込んで、吉田茂を退陣させ、『鳩山内閣誕生』に貢献する」
「安保闘争に揺れた『岸信介』を延命させるため、大野伴睦総裁指名にも関わった。児玉と岸は巣鴨プリズンで旧知の仲だった。1961年には右翼団体『青年思想研究会』を結成し、1970年安保に備えて武闘訓練に励む。1970年の自民党総裁選では、それまで『反佐藤』だった中曽根康弘を、『佐藤栄作3選支持』に向かわせ、影響力を示した」
こうして児玉は、岸信介、中曽根康弘といった政界の大物に加え、読売新聞社主の正力松太郎や、大野伴睦の番記者だった渡辺恒雄とも密接な関係を築く。
さらに裏社会では、「稲川会」初代会長の稲川聖城、また「山口組」を日本最大組織に押し上げた3代目組長の田岡一雄らとも通じていた。
ある事情通の自民党秘書はこう語る。
「とくに、『児玉側近』と言われていたのが、『東声会』初代会長の町井久之です。町井は韓国政財界に太いパイプを持つ在日韓国人で、1965年の日韓国交正常化にも一役買った。もともと町井は“兄弟分だった力道山”の紹介で児玉を紹介され、心服したようだ」
コーチャンが米公聴会で証言したロッキード社の対日工作資金は「約30億円」。
そのうち「21億円」が児玉に流れたとされる「児玉ルート」こそが本命で、資金は対潜哨戒機「P3C」導入の工作のため、複数の政治家に渡ったのではないかと見られていた。のちに児玉は、「CIA」の協力者であったことが米の公文書により判明する。
さらに、東京地検特捜部は児玉がロ社と結んだ「秘密契約」の存在も突き止めていた。その契約とは――「対潜哨戒機『P3C』の導入に成功すれば、児玉に『25億円』の報酬が支払われる」まさに、途方もない密約だった。
「P3C」導入の背景に何があったのか
対潜哨戒機「P3C」――それは海底に潜む敵の潜水艦を上空から探知・追尾する「軍用機」である。
当時、ソ連の潜水艦は深海に潜って、約2カ月間も探知不能の状態で、敵基地へ接近することもできたが、「P3C」ならそれを監視することが可能と言われていた。
しかも、日本への輸出が実現すれば、アメリカはソ連の潜水艦を自国の負担なく監視することができる。
ロッキード社の本社ビル外壁には、同社のフラッグシップ商品として、民間旅客機「トライスター」とともに、軍用機「P3C」の機体イラストが描かれていた。
ベトナム戦争終結で経営が悪化した同社にとって、この2つの航空機は、起死回生の切り札だったのだ。同社は、2つの航空機を“車の両輪”として日本への導入を強く迫っていた。
冷静に考えれば、ロッキード社がとりわけ重視していたのは、民間ジェット旅客機「トライスター」ではなく、はるかに高額な軍用機「P3C」であったことは明白だ。なぜなら、その価格差は歴然としているからだ。
トライスターは1機、「約50億円」で全日空が購入した「21機」だと「約1000億円」だが、対潜哨戒機「P3C」は1機「約100億円」にも上る。
のちに日本の防衛庁は「100機」購入することになるが、金額は「総額1兆円」を超えた。
ロッキード社にとっても、丸紅にとっても、「P3C」は桁違いの利益を生み出す巨大ビジネスだったのだ。
「事件の核心はP3C」だったのか。
丸紅の大久保専務の部下であった元航空機課長・坂篁一は、TBSのインタビューで、特捜部から「P3C」に関する事情聴取を受けていたことを認めている。
「トライスターのことがほとんどでしたが、『P3C』についても聞かれました。少なくとも2回くらい……日本への売り込みの状況についてだったと思います」
(1983年9月25日 TBSニュース)
丸紅の内部事情を詳しく知る坂は「事件の核心はトライスターではない」と強調した。
さらに「P3C」をめぐる関係者のこんな証言もあった。
「1973年のことですが、通産省が次期輸送機『YX』計画を進めていたとき、調査のためにある人物がアメリカを訪れた。すると現地で、『日本がロッキードの対潜哨戒機(P3C)に決めてくれてありがたかった』と感謝の言葉を受けたのです。
私たちも驚きました。まだ対潜哨戒機の専門会議は検討中の段階で、正式決定は3年後の1977年のはずでした。にもかかわらず、すでにロッキード側で『決まった話』になっていたのは衝撃的でした」
(航空評論家・青木日出雄 TBSニュース1983年9月25日)
これは、「対潜哨戒機」の国産化が「白紙撤回」となった翌年の1973年の出来事だが、日本への「P3C」導入が、すでにその時点で既定路線となっていたことを伺わせる証言だった。
国産化方針が「白紙撤回」された裏で何が起きていたのかーー。
のちに各メディアの一斉報道で水面下の動きの一端が明らかになった。
1972年10月の「国防会議」に先立ち、田中総理、後藤田官房副長官、相沢大蔵省主計局長が、密室で国産化の既定方針を覆したというのだ。
発端は、ロッキード事件発覚直後の1976年2月9日、久保防衛事務次官の会見での発言だった。久保は防衛局長時代の記憶にもとづいて、こう説明した。
「私はその場にいなかったが、国防会議が始まる前に、総理執務室に後藤田さんと二階堂さん、相沢さんが田中総理に呼ばれ、そこで方針が変わった」
この発言は、田中総理がロッキード社の意向を受けて国産化を「白紙撤回」したことを強く印象づけ、政界に激震を走らせた。
1976年2月10日、各メディアは「対潜哨戒機の国産化白紙撤回(P3C輸入へ)ーに疑惑」と報じ、「白紙撤回」の不透明な経緯を指摘した。
ところが――
会見後、後藤田氏と相沢氏から強い反論と抗議を受けた久保事務次官は、「発言は記憶違いだった」と訂正を強いられ、訓戒処分を受けた。
発言は訂正されたが、時すでに遅し。世間もマスコミも勇気ある久保発言は「信憑性が高い」と受け止めた。
「田中角栄、後藤田、相沢」の密議で「P3C」の導入が決定したというイメージは拡散した。
そもそも「対潜哨戒機」の国内開発、国産化は、1970年頃から、航空に強い日本を立て直すための施策として大蔵省で予算付けを行い、防衛庁は「川崎重工」など日本メーカーによる国内開発をめざして準備を進めていた。
しかし――
1972年7月に田中角栄が内閣総理大臣に就任。8月、ハワイで行われた「田中総理・ニクソン大統領」会談の直後、突如として国産化方針は「白紙撤回」された。
これにより、日本はロッキード社の対潜哨戒機「P3C」輸入へと大きく舵を切った。
同社は、ニクソン大統領の強力なスポンサーでもあり、ニクソンは同社救済のために、議会の猛反対を押し切って「750億円」の緊急融資を実行するなど、後ろ盾となっていた。
国産化の「白紙撤回」から10カ月、国産化の余地を残したような対潜哨戒機「専門家会議」が発足、さらに1年半にわたる審議が続いたが、まるで時間稼ぎのように事実上、国産化は断念された。
そして――
ロッキード社が「丸紅」を通じて田中総理に「5億円」を渡したとされる1973年から1974年。
この時期は、日本が「P3C」輸入へと大きく傾く時期と完全に一致する。
この間、ロ社は黒幕の児玉誉士夫、実業家の小佐野賢治といった政財界のフィクサーたちを巧みに操り、その思惑を着実に実現へと近づけていったと見られる。
そして、同社は対潜哨戒機「P3C」を日本に売り込むことに成功し、倒産寸前の状態から息を吹き返したのだ。
疑惑の交差、重なり合う「トライスター」と「P3C」
前述の通り、ロッキード社には、二つの顔があった。
ひとつは、初の民間大型ジェット旅客機「トライスター」の売り込みを確実なものにすること。
もうひとつは、敵の潜水艦を見つけるための軍用機、対潜哨戒機「P3C」を防衛庁に採用させること。
この二つの思惑などを時系列(TBS取材、公判資料など)で追うと、その動きはほぼ同時進行していた――。
◆1970年
1月14日 中曽根康弘、防衛庁長官に就任
8月12日 中曽根康弘、経団連のパーティーで「防衛装備の国産化めざす」とスピーチ
◆1971年
4月27日 防衛庁「第四次防衛力整備計画」原案で対潜哨戒機は国産化へ
◆1972年
2月 8日 国防会議、第四次防大綱決定 対潜哨戒機は国産化方針
7月 6日 田中角栄が内閣総理大臣に就任
8月20日 コーチャンが来日、売り込みの陣頭指揮
8月22日 丸紅・檜山社長がコーチャンに田中総理に「5億円」贈るよう進言。
8月23日 丸紅・檜山社長、大久保専務が目白の田中邸訪問「5億円」約束
8月29日 コーチャン、クラッターが児玉の紹介で田中の“刎頸の友”小佐野訪問
8月31日 ハワイで第一次田中総理、ニクソン大統領会談(9月1日まで)
9月16日 コーチャンが小佐野訪問、児玉同席
10月5日 コーチャンから相談された児玉が中曽根に電話か
10月中 ロッキード社が秘密代理人・児玉にコンサル料「21億円」支払い
10月 9日 国防会議で対潜哨戒機の国産化方針が突如、白紙撤回
10月11日 田中総理が会見で「(対潜哨戒機は)輸入にウエートを置く」と発言
10月28日 全日空が役員会で「トライスター」導入を決定
◆1973年
6月25日 丸紅・大久保がコーチャンに「5億円」の支払いを催促
7月27日 コーチャンが児玉に「P3C」を「50機」成功なら「25億円」支払う契約
7月31日 第二次田中・ニクソン会談
8月10日 丸紅・伊藤から田中角栄の榎本秘書への1回目のワイロ
8月中 対潜哨戒機(PXL)「専門家会議」が発足
10月12日 丸紅・伊藤から田中角栄の榎本秘書への2回目のワイロ
◆1974年
1月21日 丸紅・伊藤から田中角栄の榎本秘書への3回目のワイロ
3月 1日 丸紅・伊藤から田中角栄の榎本秘書への4回目のワイロ
10月9日 立花隆「田中角栄研究――その金脈と人脈」『文藝春秋』11月号発売
12月9日 金権批判で田中角栄が総理を辞職、 後任は三木武夫
12月中 対潜哨戒機(PXL)「専門家会議」が答申
「国産はコストや実現性に疑義があり、外国機の導入に言及しつつ更に検討」
12月9日 田中内閣総辞職、三木内閣発足
◆1975年
5月中 防衛庁「P3C」調査団が渡米
11月19日 国防会議が対潜哨戒機について「国産化見送り、P3C導入」との報道
◆1976年
2月4日 ロッキード事件がアメリカ上院「多国籍企業小委員会」公聴会で発覚
2月9日 防衛庁 久保事務次官の発言
「対潜哨戒機、国産白紙化は防衛庁の預かり知らぬところで決められた」
2月16日 児玉誉士夫「脳梗塞」の診断、証人喚問拒否
4月10日 米SECの資料が東京地検に到着 政府高官名「TANAKA」の記載あり
5月22日 検察がコーチャンらの「嘱託尋問」求めた公文書で「P3C」に言及
7月23日 東京地検特捜部が 田中角栄元総理逮捕を外為違法違反で逮捕
全日空への 「トラスター」導入をめぐる受託収賄で起訴
◆1977年
8月24日 防衛庁が対潜哨戒機にロ社の「P3C」の採用を内定
12月24日 国防会議が「P3C」45機装備を正式決定
児玉誉士夫の入院と福田太郎通訳の死
捜査関係者の証言などによると、東京地検特捜部は当初、「証人尋問請求書」に対潜哨戒機「P3C」の導入を明記したことから、「田中角栄への5億円」が単なるトライスター売り込みのためではなく、対潜哨戒機「P3C」の導入、あるいは両方の航空機の売り込みを目的としたものと睨んでいた。
さらに特捜部の見立てはこうだーーロッキード社から児玉に流れた「21億円」は、その後、複数の政治家に流れ、「P3C」の防衛庁への売り込み工作資金として使われた。
「トライスター」と「P3C」の両方の売り込みのために、ロ社から児玉に支払われた工作資金は総額「約70億円」に上る。
しかし、特捜部が「P3C」の疑惑に本格的に切り込むことはなかった。
児玉の先にいる政治家に、どうカネが渡っていたのかは解明できなかった。
前述の通り、事件発覚直後、東京女子医大の児玉の主治医が「脳梗塞の後遺症」との診断を提出、「証人喚問」は実現しなかった。
この主治医による児玉の「疑惑の診断」について稿を改めて記したい。
さらにロ社との交渉に立ち会うなど、事件のキーマンとされた児玉の通訳、福田太郎も急死を遂げた。
福田は「巣鴨プリズン」以来、児玉の右腕だった。
終戦後は「GHQの通訳」として採用され、 コーチャンが来日した際も通訳、助手として尽力した。
福田は事件発覚直後の2月8日に入院、特捜部の取り調べに対しても非常に協力的だったとされるが、6月10日に死亡した。
この福田の死と児玉の入院により、「児玉ルート」の捜査は大きな壁に直面したのだ。
そのため特捜部は、証拠関係がはっきりしていた「丸紅ルート」の民間航空機「トライスター」の疑惑に焦点を絞り、ロ社から「丸紅」を通じた田中角栄へのワイロを軸に事件を組み立てた。
しかし、「児玉ルール」の捜査が見送られた背景には、何らかの大きな力が働いていたとの見方もある。
堀田はのちにこう回想している。
「米側から取り寄せたSEC証券監視委員会の捜査資料に、『P3C』に関するものはなかった。 どうも、『P3C』に関する資料だけが、あらかじめ意図的に抜き取られていたように感じた。状況証拠だけでは、なにもできなかった」
米公聴会でも、日米間の「軍事利権」にかかわる「工作資金」の流れについては、いっさい検証されることはなかった。
また堀田が立ち会ったコーチャン、クラッターの「嘱託尋問」においても、「P3C」に関するやりとりの記録はなかったとされる。
歴史にイフはないが、もし児玉や福田への取り調べで「P3C」の不正を裏付けるような供述が得られていれば、特捜部は児玉と福田をただち逮捕して、本格的に「児玉ルート」を解明することは、果たして可能だったのだろうか。
児玉が「CIA」の協力者であったことが、「児玉ルート」の解明を阻む要因になっていたのではないかとの指摘もあった。
ジャーナリストの立花隆は、著書でこう述べている。
《ロッキード社の協力なしには、対潜哨戒機「P3C」の全貌を解明することは不可能だった。さらに、関係者が「P3C」問題には触れまいとする姿勢で一致していた。 検察もまた、「田中角栄がワイロを受け取った」という最重要事実を立証できれば、公判を維持して、有罪判決に持ち込むことは可能と判断していた。
ロ社の意向や関係者の思惑が「トライスター」に議論を限定させる中で、検察はその範囲内で事件の決着を図ったのである》
そしてこう指摘する。
《「P3C」については触れまいとする意思。その意思はアメリカの意思、つまり対ソ戦略の一環として存在する、日本における「対潜哨戒機P3C」の形成に、障害が起きないようにとの意思が働いたのではあるまいか》(田中角栄研究 全記録)
政治評論家の麻生良方は、ロッキード裁判が始まる前のインタビューでこう話している。
「事件の本筋は P3Cの日本への売り込みだが、検察はなぜか派生的な全日空へのトライスターの導入に、捜査を集中させた。
田中角栄を釣り上げたから、 国民感情が収まったなど、とんでもないことだ」
(TBSニュース 1976年9月30日)
丸紅側が突如、持ち出した「P3C」疑惑
田中角栄逮捕から半年後の1977年1月27日、ロッキード事件「丸紅ルート」の初公判が開かれた。
検察側が証拠で積み上げた事実を述べる冒頭陳述で、「P3C」の扱いに注目が集まった。しかし、「P3C」について触れたのは、わずか以下の数行であった。
《小佐野賢治はコーチャンから「P3C」の売り込み工作を依頼されて、了承した。
その際に、小佐野は「P3C」の売り込みに成功した場合に『児玉が取るべき報酬が少ないのではないか』とコーチャンに文句をつけ、児玉の成功報酬を「50機の受注に対して、25億円」となる契約書を作らせた》
この「25億円」の契約については、すでに捜査段階でも明らかになっており、新しい事実とは言えなかった。
ロッキード裁判は一審判決までに「6年半」の長期にわたり、「191回」の公判が開かれるという異例の展開となり、検察側と弁護側の容赦のない激しいやりとりが続いた。
一審が佳境を迎えた1982年12月15日、堀田は被告人質問で、田中角栄にこう呼びかけた。
「田中が検察官の質問に応じることを希望する」
すると、「呼び捨て」された田中は顔を紅潮させながら堀田をにらみつけた。
「質問に応じない田中さんにこう言ったら、ほんとに動物的というか、すごい気迫で『この無礼者!』と怒鳴るように言い返してきた。その怒りの防御というか、迫力がすごかった。
この勢いで迫られたら、派閥の新人議員なんて、たじろいでふっとんじゃうだろうと思った。
でも私は正論しか主張してないですから、たじろぐ理由もなく、お互いに無言の火花を散らした。もっとも緊張した場面だった」
(堀田インタビュー TBS「筑紫哲也ニュース23」 1999年5月10日)
検察側は、一審判決までの6年半、組織の威信を賭けて「ロッキード裁判」に注力した。その間、多数の特捜検事が「補充捜査」にあてられたため、新たな政治家の汚職摘発は、10年以上も鳴りを潜めた。そんな検察の執念もあり、識者やマスコミの予想でも「有罪判決」はほぼ確実視されていた。
ところが、1983年9月、翌月に一審判決を控えた土壇場で、予想外のことが起きる。丸紅側が、最終弁論で「P3C」のことをあえて持ち出す「戦法」に出たのである。
丸紅の檜山元会長の弁護団は最終弁論でこう切り出した。
「コーチャンは、ロッキード社が力を注ぐ『P3C』の対日売り込み工作に、支障が出ない形で証言する必要があった。事実、『5億円』を『トライスター』と結びつけて事件を構成することによって、P3C隠しに成功していた。日本の検察も『P3C』との結びつきを、極力避けようとするコーチャンの筋書きに従った」
丸紅側は、ロッキード社が田中角栄に「5億円」を渡す仲介役を果たしたこと自体は、認めていた。
しかし、その「5億円」の趣旨は、「トライスター」の売り込みが目的ではなく、実は「P3C」など他の航空機、軍用機の売り込みが目的だったとの主張に転じたのである。ゆえに「トライスター」について「贈収賄」は成立しないという理屈だ。
丸紅側は、検察が柱にしている「5億円」が「トライスター」購入に便宜を図った謝礼であったという趣旨を、なんとか突き崩すために、あえて「P3C」を持ち出したのである。
当時のTBSニュースは弁護側が判決直前に「P3C」を持ち出したことについて、こう伝えている。
「こうした主張は、弁護側が次の控訴審に備えて、いわば『肉を切らせて骨を断つ』という形で最後の「逃げ道」を求めたのだという見方も出ています。
しかしながら、「P3C」については法廷で具体的な立証が何らなされていないため、一審判決において、「P3C」に触れらる可能性はまずなく、「P3C」を巡る疑惑はロッキード事件全体の中で、依然として大きな謎のまま残ることとなりました」
(TBSニュース 1983年9月25日)
案の定、1983年10月12日の一審判決で、東京地裁は「ロ社から田中角栄へのワイロは『トライスター』の売り込みが目的であった」と明確に認定した。
一方で、「P3C」については「証拠上、根拠がない」「憶測の域を出ない」として、弁護側の主張をあっさり退けたのである。
東京地裁の岡田光了裁判長は、田中角栄に「懲役4年、追徴金5億円」の実刑判決、丸紅の檜山元会長、大久保元専務、伊藤元専務にも有罪判決を言い渡した。
丸紅の大久保元専務の部下だった坂元航空機課長は一審判決を受けてこう語っている。
ーーー丸紅のかつての上司が有罪判決を受けましたが
「情けないですね・・・・・寂しい感じですよ。もしこの裁判が『5億円』の授受とロッキード社の『トライスター導入』との因果関係を問うものであれば、これは無罪であるというのが、今まで、ずっと考えてきた私の結論です」(1983年10月12日 TBSニュース)
さらに、その4年後の1987年7月、二審の東京高裁も弁護側の主張を退け、一審の田中角栄、丸紅幹部の有罪判決を支持した。
東京地裁はなぜ弁護側の「P3C論」を退けたのか
ロッキード事件の裁判は、一審だけで「6年半」で「191回」の公判が開かれた。 そのほとんどを傍聴したジャーナリストの立花隆は、裁判所が「P3C論」を退けた理由について著書でこう述べている。
《弁護側の「P3C論」には、いくつかの前提が必要だったが、それが成立しなかった。たとえば、弁護側は「検察とコーチャンがともにP3Cの存在を隠していた」と主張したが、実際にはそうではなかった。
また検察は「P3C」に関する契約書についてコーチャン、クラッター、児玉、小佐野の4者会談で児玉の報酬が『25億円』に決まった経緯を突き止め、訴因を追加している。
さらに、コーチャンが忘れかけていた「5億円」のワイロの支払いを丸紅・大久保から催促された際にも「P3C」に言及している》
その経緯はこうだ。時間が経ったため予算がなくなり、支払いを渋ったコーチャンに対し、丸紅専務の大久保はこう脅した。
『そんなことになったら、今後、一切ロッキード社の製品を日本で売ることはできなくなるぞ!』
コーチャンはこれに慌て、支払いを承諾したが、その際にどの商談を意識していたのかと問われ、こう証言した。
『トライスターの追加注文と、売り込み中の他の製品・・・・』
《そして、具体的に「CS輸送機」「宇宙衛星」などと並び、はっきりと「P3C」の名前を挙げた。つまり、ロ社側の認識として「5億円」に「P3C」の意味が込められていたことを、コーチャンは少しも隠していないのだ》
このように、検察とコーチャンが「P3C」の存在を隠蔽していたとする弁護側の主張は、根拠に乏しく、認められなかった。
一方で、立花はこう指摘する。
《(贈賄の趣旨を「トライスター」だけと考えた場合)確かに腑に落ちない点がある。たとえば、ワイロは全日空が「トライスター」の採用を決定したあと、すぐに支払わずになぜ、10ヶ月も放置していたのか。しかも、ロ社は田中側と丸紅から催促されて、渋々支払ったようにも見える。 事後報酬というなら、なぜ8ヶ月もかけて「4回」に分けたのか。支払いが遅れたのであれば、一括払いではないか。このように「トライスター」だけの謝礼と考えると、不自然な点が多く、わかりにくい。しかし、だからといって、これらの状況証拠だけで「5億円」の趣旨が、「トライスター」ではなく「P3C」であったと立証はできない》
弁護側がいくら「5億円の目的はP3C導入だった」と主張しても、それを裏付ける決定的な根拠は提示されていない。つまり、具体的な立証がなされない限り、裁判所にとって「P3C論」は説得力を持ち得なかったのである。
ロッキード事件の「P3C論」を追い続けた男
ロッキード事件の本質を「P3C疑惑の隠蔽」と捉え、独自の見解を主張し続けた人物がいる。
田中角栄の側近であり、自治大臣や国土庁長官を歴任した田中派(のちに竹下派、羽田派)の元国会議員・石井一だ。
田中の逮捕後、石井は何度も渡米し、アメリカの公文書の収集や関係者へのインタビューを重ねた。
そこで得た確信として著書の中でこう綴っている。
《ロッキード事件の本質は、問題の焦点を軍用機「P3C」から民間旅客機「トライスター」へ、そして「主犯」を中曽根康弘から田中角栄に置き換えて描かれたフィクションのストーリーである》
「P3C」は意図的に消されたのか、石井はこう主張する。
《ロッキード事件の捜査、裁判記録には、「P3C」の姿はほとんど見あたらない。
田中角栄や丸紅側の起訴事実は、あくまで「トライスター」1本に絞られている。
しかし、検察は当初、「P3C」を含めた捜査方針を取っていた》
《1976年5月22日、検察が米国に「コーチャンの嘱託尋問」を正式に要請した時点では、「P3C」も捜査対象に含まれていた。
それが、7月28日に「嘱託尋問調書」を受け取るまでのわずか2カ月間で、「P3C」は跡形もなく消えた》
石井は、米国がコーチャンの「嘱託尋問調書」を引き渡す条件として、「P3C疑惑の封印」を要求したのではないかと分析する。
《日米両政府とロッキード社の協議によって、「日米安保条約」や防衛体制を揺るがしかねない軍用機の「P3C」の問題を故意に隠し、比較的ショックの少ない「トライスター」だけが追及対象となった。
アメリカ側は、日本にコーチャンの「嘱託尋問調書」を引き渡す条件として① 最高裁による「刑事免責」の保証 ② 対潜哨戒機「P3C」に関する非公開と捜査の中止ーーこの二つを求めた可能性が高い》
石井の見立ては、こう続く。
《ロッキード事件の真の本質は、日本政府の「P3C」調達をめぐる日米両国関係者による
「巨大な利権スキャンダル」だったのではないか》
石井は、この背後には、田中を危険視していたキッシンジャー国務長官と三木武夫総理の思惑が絡んでいたと指摘する。
《彼らの意向によって、「事件のターゲット」は「P3C」から「トライスター」に、「真の主犯」は「中曽根康弘」から「田中角栄」へと、すり替えられた》
石井はさらに、この事件は「P3C」に疑惑が及ばないように、田中角栄1人に罪を負わせたと主張する。
《実際、「P3C」の工作資金を動かしていたのは、ロッキード社の秘密代理人・児玉誉士夫だ。児玉と深い関係にあったのは、岸信介であり、佐藤内閣で防衛庁長官を務めた自民党幹事長・中曽根康弘であって、田中角栄とほとんど繋がりはなかった。もし「P3C疑惑」が真正面から追及されていれば、防衛庁が絡む「防衛汚職」に発展し、「日米安保体制」を根本から揺るがす国家的スキャンダルとなっていたはずだ。しかし、それは何としても回避しなければならなかった》
田中角栄に一審判決が言い渡された後、石井は田中と交わした会話を忘れられないという。
《「田中判決解散」と呼ばれた1983年の総選挙。私は落選し、意気消沈していた。そんな私を励まそうと、オヤジ(田中)は越後の郷土料理でもてなしてくれた。東京・目白の田中邸の茶の間で、食事をしながら2人きりで語り合っていたとき、オヤジはふとさらりと、しかし意味深長にこう言った》
『P3Cのことは墓場まで持っていく。』
石井はこの言葉の重みを噛みしめる。
《その言葉には同じ1918年生まれで、なおかつ『初当選同期組』だった中曽根康弘に対する男の友情を感じましたし、オヤジの信念がひしひしと伝わってきました》
コーチャンが泣きついた児玉――その「電話」の相手とは
中曽根康弘がロッキード事件に関与していた疑惑は、「P3C」だけではなかった。
全日空への「トライスター」納入をめぐってもコーチャン副会長から、依頼があったことが「コーチャン回想録」や「嘱託尋問」の中で語られている。
1972年10月5日、コーチャンは前日、田中角栄と親しい政商・小佐野賢治と面談していた。そこで小佐野が告げたのは、衝撃的な情報だった。
「日本政府の行政指導で、ロッキード社の『トライスター』は『全日空』ではなく『日本航空』が購入することになった。全日空はダグラス『DC-10』を導入する」
要するに、トライスターの納入先が突如として「全日空」から「日本航空」へと変更されたというのだ。
コーチャンは驚愕する。そしてこう思ったという。
「これは陰謀ではないのか」
小佐野は「日本航空は全日空より大きな会社だから、不満はあるまい」と話したが、もちろん、コーチャンは到底納得できない。
《「日本航空」はすでに主力機を「ボーイング747」に決めており、そもそも「トライスター」が搭載するロールスロイス製エンジンを好んでいないと聞いていた。
このままでは、「日本航空」もトラスター購入を見送ると思った》
(「コーチャン回想録」より)
コーチャンは滞在先の「ホテルオークラ」を飛び出し、銀座四丁目にある児玉誉士夫の事務所に駆け込んだ。泣きつくコーチャンを前に、児玉は秘書の太刀川に「中曽根に電話してくれ」と指示した。
太刀川はかつて中曽根の書生を務めていた人物だ。児玉は受話器を受け取り、コーチャンの窮状を伝えた。
児玉は15分以上の通話を終え、コーチャンにこう告げた。
「中曽根があす一番にこの件で、努力をしてくれると約束した。明日には上手く行っているだろう」
そして翌日昼、児玉の通訳・福田太郎を通じて、コーチャンに朗報が届く。
「中曽根が転覆に成功した」
その言葉通り、状況は一夜にして覆され、ロッキード社と「全日空」の交渉が再開された。
つまり、中曽根が動き、わずか一晩で「トライスター」の売り込み先は、「全日空」に戻されたのだ。
コーチャンはこの出来事を振り返り、こう語っている。
「長い会社生活の中でも、最大の危機に見舞われた日だった」
この話が事実ならば、中曽根はロッキード社の危機を回避してくれたコーチャンの「恩人」ということになる。
そして、同社から何らかの報酬を受け取っていても不思議ではない。
この時期、中曽根は別の疑惑も取り沙汰されていた。
福井県の「九頭竜ダム建設汚職事件」をめぐり、児玉との関係を告発する『権力の陰謀』(緒方克行著、現代史出版会 1976年)が出版され、話題となっていた。
そんな中、中曽根は1977年4月13日、自ら申し出て国会の「衆議院ロッキード問題調査特別委員会」の「証人喚問」に臨んだのである。
「トライスター工作」に関する児玉からの電話の有無、一転して国産化が「白紙撤回」された「対潜哨戒機」など、3時間半にわたる厳しい追及が続いた。
しかし、中曽根はすべてを否定した。
「そういう電話を受けたことは全然ございません」
「私のやってきたことは間違っていない」
ただひとつ、東京地検特捜部から「参考人」として2回事情聴取を受けたことだけは否定しなかった。
中曽根は「証人喚問」によって、永田町では「みそぎが済んだ」「免罪符」と受け止められた。
そして田中派の支持を受け、5年後の1982年11月、ついに内閣総理大臣に就任。中曽根内閣は高い支持率に支えられ、長期政権を維持した。
中曽根は国鉄の分割民営化や専売公社の民営化を推進し、レーガン大統領との「ロン・ヤス」関係で日米関係を強化するなど、その在任期間は佐藤栄作、吉田茂に次ぐ戦後3番目の長期政権となった。
しかし、ロッキード事件の「児玉―中曽根ライン」をめぐる疑惑は、決して払拭されたわけではない。
捜査や裁判で解明されたのは、「丸紅ルート」という一部の構図に過ぎなかった。
事件当時、沈黙を貫いていた関係者たちが、時を経て少しずつ口を開き始めた。
長く閉ざされていた闇に、少しずつ微かな光が差し込もうとしていた――
(つづく)
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TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
岩花 光
◇参考文献
堀田 力 「壁を破って進め 私記ロッキード事件(上下)講談社、1999年
立花 隆 「ロッキード裁判傍聴記」全4巻、朝日新聞社、 1981〜85年
立花 隆 「論駁 ロッキード裁判批判を斬る」全3巻、 朝日新聞社、1985-86年
奥山 俊宏「秘密解除 ロッキード事件」岩波書店、 2016年
真山 仁 「ロッキード」文藝春秋、2021年
春名 幹男「ロッキード疑獄」角川書店、2020年
石井 一 「冤罪 田中角栄とロッキード事件の真相」産経新聞出版、 2016年
宗像 紀夫「特捜は『巨悪』を捕らえたか」ワック、 2019年
NHK 「未解決事件」取材班「消えた21億円を追え」朝日新聞出版、2018年
A.C.コーチャン/村上吉男訳 「ロッキード売り込み作戦」朝日新聞社、1976年
大下 英治「昭和、平成震撼『経済事件』闇の支配者」青志社、2014年
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