
「失われた20年」と言われた1990年代から2000年代にかけて、東京地検特捜部は、バブル経済の崩壊をきっかけに、それまで“聖域”とされていた政治家・大企業・裏社会の黒い癒着に切り込み、大型経済事件を次々に摘発した。
その象徴的な出来事が、「エリートの中のエリート」と称される大蔵省を舞台に発覚した、いわゆる「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」である。
「国家予算の配分権」という強大な権限を握る大蔵省と、政界にまで切り込む最強の捜査機関・東京地検特捜部。
かつては“盟友”として日本の行政システムを支え、伊勢神宮の二本の鳥居にもなぞらえられた両者の関係に、亀裂が生じる。
「総会屋事件」の捜査で銀行などから押収された「伝票類」からは、大蔵官僚が過剰な接待を日常的に受けていた実態が次々と明るみに出た。
検察は、はたして“国家権力の中枢”たる大蔵省に本格的に切り込むことができるのか。
今だからこそ語られる関係者の証言をもとに、大蔵省接待汚職事件をめぐる知られざる攻防の内幕に迫る。
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ターゲットは「総会屋」から「大蔵省」へ
オウム真理教事件翌年、1996年。“証券業界のガリバー”と呼ばれた野村証券が、大物総会屋・小池隆一に巨額の利益供与をしていたことが発覚した。株主総会を円滑に乗り切るために、長年にわたって総会屋の力を借りていたのだ。
端緒は野村社員による内部告発。
SEC(証券取引等監視委員会)は野村証券が小池隆一に違法な「一任勘定取引」で便宜を図ってきた事実を突き止めた。
それでも、かつて「世界の野村」「ガリバー」と称された野村の幹部たちは筆者の取材に対し、強気だった。
「うちは政界や大蔵省に太いパイプのある田淵節也さんがついているから大丈夫だよ」
社長・会長を歴任し、「大タブチ」の異名で知られた田淵節也は、野村証券を業界トップへと押し上げた立役者である。
中曽根康弘、宮澤喜一といった歴代首相とも親交が深く、なかでも大蔵大臣を何度も務めた竹下登元首相とは、「何でも話せる仲」と言われていた。
野村証券と大蔵省の結びつきは古く、戦後直後にさかのぼる。
大蔵事務次官から政界入りし、後に総理大臣となった池田勇人と、野村証券の戦後初代社長で「中興の祖」と称された奥村綱雄が手を組み、「農地証券の償還」を実現したことに始まるとされる。
とりわけ大蔵省証券局は“野村証券大蔵支店”と揶揄されるほどの蜜月が続いていた。
マスコミの間でも、「検察が野村に手を出せるはずがない」との見方が支配的だった。
こうした状況のなか、1996年に東京地検特捜部長に就任した熊崎勝彦(24期)は、従来“タブー”とされてきた領域に容赦なくメスを入れた。
翌1997年5月30日、世間に衝撃が走った。
野村証券が大物総会屋・小池隆一に対して不正な利益供与を継続していたとして、トップの酒巻英雄社長を商法違反および証券取引法違反で逮捕したのである。(後に有罪確定)
これを皮切りに、山一、大和、日興の4大証券すべてを総会屋への利益供与で摘発。
さらに捜査の過程で、第一勧業銀行が小池隆一側に対し、総額約「460億円」にのぼる不正融資を行っていたことが発覚。
特捜部は5月20日午前9時、東京・内幸町の第一勧銀本店に約100人の係官を動員し、強制捜査に踏み切った。
その結果、押収された数千箱にも及ぶ段ボールの中から、予想外の“副産物”が見つかる。
それは、大手銀行や証券会社の「MOF担(モフたん)」と呼ばれる大蔵省担当者が、大蔵官僚に対して、高級料亭や銀座のクラブ、ゴルフ場などで過剰な「接待」をしていたことを示す膨大な「交際費伝票」だった。
「MOF担」とは「Ministry of Finance(大蔵省)」のMOFに由来し、各金融機関で大蔵省との折衝や情報収集を担う銀行員のことを指す。
大蔵官僚に日常的に張り付き、接待を通じて金融行政に絡む情報を引き出すことをミッションとしていた。
一方、大蔵省は当初、こうした「接待」問題を深刻に受け止めていなかった。
1997年7月、大蔵省は総会屋・小池隆一事件について、銀行局の「金融検査官」が第一勧銀に対して実施した「金融検査」について、そもそも第一勧銀が適切に応じていたのかどうか、再確認に乗り出した。
その過程で、大蔵省は「第一勧銀が小池に対する不良債権を隠していた事実」を把握したのである。そこで同省は、これが「検査妨害」にあたるとして、第一勧銀を銀行法違反(検査忌避)で刑事告発するに至った。
この告発を受けて、東京地検特捜部は「被害者」である大蔵省側のノンキャリア職員である「金融検査官」のMに事情聴取を行った。
「金融検査官」とは、2013年に放送されたドラマ『半沢直樹』で片岡愛之助が演じた、金融庁(旧・大蔵省から分離独立)の黒崎検査官のような存在である。銀行に立ち入り検査を行い、不正融資や不良債権の有無を調査するのが役割だ。
だが、特捜部による事情聴取の過程で、大蔵省の金融検査官のMが、検査期間中に第一勧銀から「接待」を受けていた事実が発覚した。
にもかかわらず、大蔵省はMに対して「戒告処分」、他の「金融検査官」8人には口頭による厳重注意という、軽微な処分にとどめたのであった。
1997年9月の検察人事で、笠間治雄(26期)から東京地検特捜部・直告一班の副部長を引き継いだのが、山本修三(28期)であった。粘り強い捜査姿勢から、「スッポンの山修」との異名をとっていた。
「直前まで東京高検で佐渡賢一(23期)さんの下、リクルート事件の控訴審に専念していた。藤波孝生元官房長官の一審の無罪判決をようやく覆し、控訴審で逆転有罪を勝ち取って特捜部に戻った」
(山本)
山本は、大蔵省による処分の軽さを知り、こう思った。
「特捜部としては、金融検査官が接待の事実を“先行自白”したと受け止めた。
大蔵省は“大した問題ではないと”見ていたようだが、行政の根幹に関わる金融検査において接待を受けるなどという事実は、見過ごすことはできない」
◼「捜査関係事項照会」の“14人接待リスト”
もちろん特捜部長の熊﨑、副部長の山本は、これまでバブル期の慣習ともなっていた大蔵官僚の「接待漬け」について、「単なる接待」だけで刑事責任を問うことは考えていなかった。
「接待」にプラスアルファの悪質性、応報性があるかどうかによって「事件を立てる」かどうかを判断する方針だった。
特捜部はこれまでの捜査から接待を受けていた大蔵省のキャリア、ノンキャリアの捜査対象を「12人」に絞り込み、実名を記載した上で、各銀行に対して「捜査関係事項照会」として送付した。これらの「12人」の大蔵官僚に関する銀行口座や取引情報など「個人情報」を提供するよう命じたのだ。
検察や警察は「刑事訴訟法第197条2項」を根拠に、企業などに対して「捜査に必要な個人情報」の提出を求める権限が認められている。
この「捜査関係事項照会」の情報は大蔵省の「12人」に日本銀行幹部「2人」を加えて、いわゆる“14人接待リスト“としてのちに一人歩きすることになる。
特捜部は“14人接待リスト“が銀行側から大蔵省に漏れるリスクも想定し、この中には「ダミーの大蔵官僚の名前」もあらかじめ紛れ込ませていた。
案の定、このリストはのちに大蔵省に伝わっていたことが明らかになる。
山本は、大蔵捜査班の班長である大鶴基成(32期)にこう指示した。
「主要20行の銀行のMOF担を呼び出して、『業務日誌』と『接待伝票』を任意で提出させてくれ。それと14人の大蔵官僚、日銀幹部の家族を含めた『銀行口座』のカネの出入り、『取引状況』を提出させるように頼む」
さらにこう念押しした。
「第一勧銀以外の銀行には、警戒感を与えないよう『第一勧銀捜査の参考にしたいので協力してほしい』と説明するように」
野村証券など証券会社からはすでに総会屋事件で資料を押収していたため、大鶴らは「主要大手銀行20社」の「MOF担」に絞って一斉に呼び出しを掛け、事情聴取した。
大蔵省のキャリア官僚は、東大出身者が多いため、銀行側もMOF担には、たいていは30代の東大出身者を配置していた。「銀行のCIA」と呼ばれる総合企画部に所属するエリート銀行員だ。
当時、第一勧銀のMOF担はTBSの取材にこう語っていた。
「1ヵ月に200万円の接待費を使うが、ほとんど相手は大蔵省。銀座、赤坂の高級クラブや料亭で飲食接待する。週に平均3回。休日はほとんどゴルフ接待だった」
「一日中、大蔵省に張り付き、許認可に関する工作や金融行政の動きを探った。
なかでも、金融検査の日程や対象支店を聞き出すために、検査官の妻の誕生日、酒や女性の好みまで調べた。もちろん、検査期間中も続けていた」(MOF担)
ただし、特捜部はMOF担については当初から「訴追対象外」としていた。
MOF担は会社の業務として接待に従事していたにすぎず、問題の本質は、絶大な権限を持つ大蔵官僚側の「たかり体質」にあると見ていたからだ。
大蔵官僚による悪質な「つけ回し」
大蔵官僚が受けていた接待は、庶民感覚からかけ離れていた。
飲食やゴルフはもちろん、銀座の高級クラブのホステスが客のもとへ出向く「特攻隊」や、「かもめ」と呼ばれるアルバイト芸者が相手を務める向島の料亭など、女性を伴う接待もバブル期以降、エスカレートしていた。
中でも、後に特捜部が家宅捜索を行った新宿・歌舞伎町の「ノーパンしゃぶしゃぶ店」は、多くの大蔵官僚がMOF担を誘って訪れる、一種の“ブーム”のような存在だった。
「ノーパンしゃぶしゃぶ店」については稿を改めて記したい。
大蔵官僚の接待金額は、5年間で「200万円」を超える例は珍しくなく、中には「1,000万円」単位に上る官僚もいた。特捜部がとりわけ「悪質」と判断したのが、「つけ回し」と呼ばれる行為である。
「つけ回し」とは、接待の場にMOF担が同席していなかったにもかかわらず、飲食費の請求書だけを銀行に回し、その費用を負担させる行為を指す。
特捜部にとって「立件価値」があると判断する明確な基準のひとつは、接待の回数や金額ではなく、大蔵官僚がこの「つけ回し」を行っていたかどうかだった。
MOF担の供述にはリアリティがあった。
「会計だけのために呼び出され、長時間待たされたこともあった。
ある夜10時頃、『話したいことがあるので、銀座の某クラブに来てほしい』と親しい大蔵官僚から電話があったので、指定された店に行くと、大蔵官僚が4人くらいいて、ホステスと盛り上がっていた。もちろん話などなかった。飲み代を支払わされただけだった」
「ある大蔵省の審議官は、よく大勢の部下を引き連れ、ステーキハウスやイタリアンレストランを利用していた。その利用した高級レストランの代金を、銀行に“つけ回し”することも普通だった」(MOF担)
1997年暮れ頃になると、「過剰接待」の実態が次第に明らかになってきた。
大鶴ら班長は年明け、それまでの捜査結果をもとに、それぞれの大蔵官僚が、過去5年間に受けていた接待実績を一覧表にまとめ、熊﨑に報告した。
その一覧表に記載された大蔵官僚の人数、接待回数、接待金額は、熊﨑の予想をはるかに上回る、「接待まみれ」の実態を示していた。
副部長の山本、班長の大鶴からの報告を聞いた熊﨑は、驚きを隠さなかった。
「これは……接待の海やな。常軌を逸している」
1997年10月末、熊﨑は東京地検検事正・石川達紘、次席検事・松尾邦弘に捜査内容を報告。このとき初めて、「接待」を「ワイロ」と認定し、大蔵官僚を立件するという方針が東京地検幹部に正式にオーソライズされた。
特捜部は、全国から応援検事を30人に増員し、検事総数を70人近くまで拡充。
過去の「リクルート事件」や「ゼネコン事件」を上回る、かつてない規模の捜査態勢が敷かれた。
応援検事たちは、東京地検の隣にある公正取引委員会や東京区検の建物に分かれて詰めることとなった。
「花の41年入省組」の大蔵省OBを逮捕
1998年の年明け間もない1月10日、11日の週末、特捜部は静岡県浜名湖・舘山寺温泉で恒例の「新年会」を開いた。
翌12日の夜には、予定通り「東京地検特捜部発足50年」の記念パーティーが、東京・霞ヶ関の法曹会館で開かれ、筆者も出席したが、現職の特捜検事の多くは顔だけ出してすぐに仕事に戻っていった。
実はこの舘山寺温泉の新年会は、最初に予定されてた17日、18日から「前倒し」されて行われていたのだ。
この日程変更の理由は、その後の動きによってすぐに明らかとなった。
正月気分がまだ残る1月18日、特捜部は大蔵省OBで「日本道路公団」理事に天下りしていた大蔵省元造幣局長のIを電撃的に逮捕した。
異例の日曜日の着手だったが、土曜日の段階で筆者らTBS司法記者クラブは、事前に情報を掴み、日本道路公団の家宅捜索に向けて中継クルーを配置し、予定原稿や事前に取材したVTR素材を準備していたため、想定内の動きだった。
筆者らは大蔵省OBであるIの逮捕を、大蔵省本体への捜査着手に向けた「前哨戦」と受け止めた。Iはかつて金融検査部長もつとめており「金融検査」の事情についても詳しく知る人物であった。
Iを知る大蔵省関係者は回想する
「大蔵省OBのIさんは東海財務局長のころ、家族を伊豆に連れて行くというので、地元の
金融機関に“クルーザーを用意しろ”と頼んでいた。その銀行の人は『クルーザーは人件費も込みで100万円位かかるよ』と苦笑しながら応じていた」
Iは、野村証券の副社長や日本興業銀行の常務らからゴルフや飲食の接待を受けていた。
金融機関の狙いは、日本道路公団が発行する「外債」の主幹事獲得だった。
野村のゴルフ接待は、送迎のハイヤープラス2万円程度のお土産付き、2年半で41回、「284万円」に上った。
これに対して日本興業銀行は、新規参入して主幹事を獲得した野村証券から、再び主幹事ポストを奪回して巻き返すため、Iに対して支出した接待総額は「150万円」に達した。
Iが野村、興銀など各金融機関から受けた接待総額は「約850万円」に上った。
大蔵省OBのIは、1966年にキャリア官僚として採用され、優秀な人材が揃ったと言われる「花の昭和41年組」のひとりだった。同期は22人、とりわけ「三羽烏」と呼ばれた武藤俊郎、長野庬士、中島義雄はトップグループと評された。
武藤敏郎は、大蔵接待汚職で官房長として捜査の矢面に立ったが、中央省庁再編で初代財務次官を務め、日銀副総裁を経て、東京オリンピック組織委員会の事務総長を務めた。
長野庬士は、証券局長として「山一證券破綻」の対応にあたったが、1998年に接待問題で減給処分を受けて退職した。その後、弁護士に転身し「西村あさひ法律事務所」でパートナーを務め、高額所得者番付のトップ10入りするなど実績を上げた。
中島義雄は、宮澤喜一の総理秘書官や主計局次長を歴任した大蔵省のエース官僚である。
中島は「将来の事務次官」と目されていたが、1995年に田谷廣明とともに「二信組事件」に関連して「イ・アイ・イ・インターナショナル」の高橋治則からの過剰接待を受けたとして
処分を受け、退官を余儀なくされた。
実はこのとき、東京地検特捜部の副部長として指揮を執っていた笠間治雄(26期)は「中島、田谷の“接待”について内定捜査を進めていた」とされるが、最終的に立件されることはなかった。
ちなみに、その中島が秘書課企画官として採用を担当したのが、いわゆる「1982年入省組」である。
当時の大蔵大臣・渡辺美智雄(通称「ミッチー」)は、「これからの大蔵省には、単なるインテリではなく、面白みのある、多様な人材が必要だ」と述べ、型にはまらない学生の採用を促したとされる。
この「1982年入省組」は、くしくも大蔵省の不祥事と深く関わることになった人物が多い。
「大蔵省接待汚職事件」で有罪判決を受けた榊原隆、生保業界からの接待で処分を受けた佐藤誠一郎、テレビ朝日の記者に対するセクハラ行為が報じられた元事務次官・福田淳一、「森友・加計学園問題」で追及を受けた元国税庁長官・佐川宣寿など、いずれもメディアで大きく取り上げられた官僚たちである。
エリート官庁「大蔵省」への強制捜査
大蔵省OBの逮捕から約1週間後の1998年1月26日午後4時35分、特捜部はついに本丸の「大蔵省」への強制捜査に乗り出した。
当時、特捜部副部長だった山本はこう振り返る。
「1月26日の大蔵省への強制捜査の直前に、最高検察庁のたしか次長検事だった思うが、『あと3日くらい待ってくれないか』と言われたが、熊さんのゴーサインも出ていたこともあり、そんな直前に変更できない。もちろん主任検事の井内には家宅捜索の集合場所になっていた日比谷公園にそのまま行かせた」
「たしかにゴーサインが出ていても、政界や大蔵省からかなりの圧力があったから、早く着手しないと雑音が大きくなる状況でもあった」(山本)
「熊さんがポイントポイントで、何回か東京高検や最高検に説明しながら、最終的には検察トップの土肥孝治検事総長(10期)に直接報告もしていた。土肥さんは『積極的ではないけれど、そこまで証拠が積み上がっているなら、やらざるを得ない』という雰囲気だった」
熊﨑はのちに筆者にこう語っている。
「大蔵省は国会議員より圧倒的に強い権力を持っている。法務・検察の予算も大蔵省と折衝するわけで、法務省や検察首脳の一部には捜査に慎重論もあった。ただ一線の検事が私生活や家庭を犠牲にして捜査に没頭し、逐一状況を報告にきていた。明らかな証拠が出てきている以上、“大蔵省だけはやらない”という選択肢はなかった。それは特捜部長失格だと思った。どんな批判を浴びようが、やるしかない、一生に悔いを残したくないと腹をくくっていた」
「金丸さん(元自民党副総裁)を取り調べた脱税事件のときのプレッシャーと違って、大蔵省という巨大権力に切り込むことは、いろんな人を敵に回すことになる。
土肥さん(検事総長)のところに説明に行って、強制捜査の了承をもらったときに、土肥さんから“これで僕も多くの友だちを失うことになるよ”と言われたことは、一生忘れられない。それでも土肥さん、石川さん(東京地検検事正)は現場のことを深く理解し、捜査が引けないところまで来ていることもよくわかっていた。この二人の存在は心強かった」
捜査主任の井内顕策(30期)を先頭に50人以上の検事、係官らが大蔵省正面から隊列を組んで庁舎に入り、家宅捜索に着手、4階の銀行局を中心に大量の資料を押収した。
井内には今でも印象に残っていることがある。
「正確な言葉は忘れたが、石川検事正から電話があり、杉井審議官(キャリア)の部屋の捜索は、丁重にやってくれとの趣旨の連絡があった。相当気を使っていることが伝わってきた」
この日、特捜部が身柄を拘束したのは、あくまでノンキャリア職員にとどまった。キャリア官僚については、まだ容疑の構築が十分ではなく、固まり切っていなかった。
そうしたなかで行われたキャリア官僚の杉井審議官室への家宅捜索には、慎重さが求められた。キャリア官僚の職務権限は一般的に広範かつ包括的であり、接待が果たしてどの業務をゆがめ、公平性を損ねたのか―そのワイロの「対価」を詰めるために、さらなる捜査が必要だった。
家宅捜索中、井内は不謹慎だと思いながら、こう感じたという。
「大蔵省職員らの多くは、書類の山に囲まれた狭いスペースで執務をさせられており、予想したよりも劣悪な環境だった。検事の方がよっぽどましな環境だと感じた。不謹慎かもしれないが、捜索中に“こんな執務環境ならノーパンしゃぶしゃぶで息抜きしたくもなる気持ちもわかる”とすら思った」(井内主任検事・現弁護士)
家宅捜索は深夜まで及んだが、午後10時過ぎ、三塚博大蔵大臣が記者会見を開き、辞意を表明した。翌27日、正式に引責辞任した。
三塚は1991年6月、安倍晋三元首相の父・安倍晋太郎の死去後、「清和会」内の激しい主導権争いを制し、会長に就任。安倍派を継承し、「三塚派」として再編していた。
三塚博をめぐっては、過去にも1993年の「ゼネコン汚職事件」をはじめ、たびたび疑惑が捜査線上に浮上し、東京地検特捜部も複数のルートから内偵捜査を進めていた。
筆者らもその動きを追って取材を重ねていたが、最終的に特捜部が立件に足る証拠を掴むことはなかった。三塚をめぐる疑惑は闇に葬られた。
特捜部は家宅捜索と同時に、銀行局に所属するノンキャリアの金融検査官MとTを、第一勧業銀行、あさひ銀行、三和銀行などから接待を受けた収賄容疑で逮捕。
2人の名前は、すでに銀行側に提出された「捜査関係事項照会」にも記載されていた。
現職の大蔵省職員が逮捕され、本省が本格的な家宅捜索を受けるのは、戦後初期の1948年、昭和電工疑獄で福田赳夫主計局長(無罪確定、後に総理)が逮捕されて以来、実に50年ぶりの衝撃だった。
(つづく)
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TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」ゼネラルプロデューサー
岩花 光
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《参考文献》
村山 治「特捜検察vs金融権力」朝日新聞社、2007年
村串栄一「検察秘録」光文社、2002年
読売新聞社会部 「会長はなぜ自殺したか」 新潮社、 1998年
熊﨑勝彦/鎌田靖「平成重大事件の深層」中公新書ラクレ、2020年
伊藤博敏「黒幕 裏社会の案内人」小学館、2014年
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