
世界情勢の緊張に伴い、プロパガンダという言葉をしばしば耳にする。SNSやAIによりさらに深化しているプロパガンダは「ナラティブ(物語)」として構造化された時に最も力を発揮する。であれば、「ナラティブ」の力を、対立する主張を健全に統合するために使うことができるのではないか。近現代史研究者の辻田真佐憲氏による論考。
プロパガンダの本質は「掛け算」
前回の寄稿「現代のプロパガンダ」(2023年8月)では、そのタイトルのとおり、現代におけるプロパガンダの特徴とその受け止め方について論じた。
ウクライナ戦争の長期化などを背景に、それまで過去のものとみなされていたプロパガンダという用語がすっかり人口に膾炙した。だがいっぽうで、その影響力を過大に見積もる言説も散見される。こうしたものについては、批判的に評価しなければならない。
そもそもプロパガンダの本質は「足し算」ではなく「掛け算」である。つまり、もともと何事かに関心をもっているひとの意識を強化し、ある方向へと導くことはできても、無関心なひとを一から動かすことはきわめてむずかしい。
たとえば、「移民のせいで日本が悪くなっている」といった情報発信を考えてみよう。この主張は、もともと移民に否定的な感情を抱くひとびとには響くかもしれない。しかし、移民問題に関心のないひとからすれば「何か政治的なことを言っているな」程度の反応にとどまるだろうし、排外的な言説に嫌悪感を抱くひとにとっては、むしろ逆効果になりかねない。
加えて、人間はたとえ自分の意見に近い内容であっても、すべてを無条件に受け入れるわけではない。このことは日常感覚でもわかるだろう。そのため、多くのプロパガンダは実際には届かず、無視され、捨てられる。プロパガンダはけっして万能ではない。こうしたことは、従来のプロパガンダ研究においても繰り返し指摘されてきた。
とはいえ、今後も同じ構図が通用するとは限らない。SNSと生成AIの普及によって、プロパガンダの効力が変化する可能性も考えられる。
SNSと生成AIによるプロパガンダの変化
SNSはひとびとの関心や嗜好を吸い上げ、きわめて効率的に「ターゲット化」された情報提供を可能にする。そこに生成AIが加われば、大量かつ個別最適化されたプロパガンダの作成が、きわめて低コストで行えるようになる。
これにより、従来の「一対多」の情報発信とは異なる、「一対一」に限りなく近いプロパガンダが可能になる。受け手ごとに最適化された情報がつぎつぎと届けられ、それが個々人の内面に巧妙に入り込む。まさに、「プロパガンダのターゲット化」が生まれようとしている。
この新たな段階においては、もはや「プロパガンダなんて効かない」と高を括ることはできないのかもしれない。前回は、この懸念と、それにたいしてわれわれが取りうる初歩的な対策を示したところで筆をおいた。
深まるプロパガンダの「ターゲット化」
さて、前回から約2年の歳月が流れ、そのあいだに世界はさらに混迷を深めた。ガザ危機は深刻化し、第二次トランプ政権も誕生した。国際情勢の緊張は高まり続け、プロパガンダへの関心も、以前にも増して鋭敏になってきている。では、このあいだにプロパガンダという現象に、新たな展開はあったのだろうか。
結論からいえば、基本的な構造に大きな変化は見られないものの、すでに見られていた傾向が着実に深化・加速している。「プロパガンダのターゲット化」も徐々に日常のものとなりつつある。
たとえば、選挙期間中にYouTubeを開けば、その地域の候補者による広告が以前より目に付くようになった。これは、ユーザーのアクセス情報にもとづいて広告を表示するシステムが、ますます精緻になっていることを示している。
これが普段の閲覧履歴や検索傾向とも連動するようになれば、より精密に個人の関心に食い込むプロパガンダが可能になるだろう。場合によっては、他国による情報操作がこれまでなく個人の内面にまで食い込んでくる未来すら現実味を帯びている。
しかし、今回注目したいのは、プロパガンダを発信する側ではなく、それを受け取る「われわれ」の側の問題である。
前回指摘したように、プロパガンダは「掛け算」の性質をもつ。つまり、もともとの関心がなければ乗算効果は発揮されず、影響は限定的ということだ。この関心なるものの正体をさらに掘り下げてみると、それは先入見と言い換えることができる。
ここでいう先入見は、いわゆる偏見や差別のみを指すわけではない。人間はだれしも、味覚や嗅覚、外見にたいする好悪といった、ある種の価値判断をあらかじめ抱いている。こうした好みは一般に保守的で変化しづらい。これに限らず、育った文化や受けてきた教育、社会的な経験などが、無意識のうちにわれわれの物事の受け取り方を形づくっている。
プロパガンダが効果を発揮する受け手側の「先入見」
プロパガンダは、こうした先入見に呼応して効果を発揮する。逆に言えば、発信側がどれだけ巧妙にメッセージを作っても、受け手の価値観や文化的背景にまったく合わなければ、あまり意味をなさない。プロパガンダの力とは、すでに存在している感情や不満に「名前」を与え、それを「正当な怒り」や「誇り」などとして再構成するところにある。
たとえば、アメリカのトランプ現象を見てみよう。そこでは、たしかに過激な言辞や誇張された主張が繰り返された。だが、それが社会的な運動として波及した背景には、白人中間層の間に鬱積していた怒りや将来への不安といった感情がすでに存在していたからだろう。
プロパガンダは、こうした漠然とした感情に言葉を与えることで、一種の政治的「正当性」を与える。逆にいえば、同じ戦術を反対陣営が模倣したとしても、それが受け手の内面と結びつかなければ、有効にはならない。
この構図は、ガザ危機における欧米の対応にも見られる。欧米諸国は、反ユダヤ主義という宿痾の反動で、イスラエル寄りの立場をとりやすく、その姿勢は市民社会にも深く根を下ろしている。そのため、日本では当たり前のようなイスラエル批判が、欧米ではヘイト発言という扱いとなり、それまでの仕事をキャンセルされることにもなりうる。
この状況下で、たとえパレスチナ側からの情報発信が大幅に強化されたとしても、欧米社会の世論が一気に転換するとは考えにくい。
じつはウクライナ戦争でも、その傾向は露呈していた。CBSニュースの特派員が「ウクライナは、イラクやアフガニスタンのように数十年も紛争が続いている場所とは異なり(中略)比較的文明化しており、ヨーロッパのような都市です。今回のようなことが起こるとは予想もできなかった場所です」と発言し、批判を浴びた。別のジャーナリストは、ウクライナのひとびとが「私たちにそっくり」であり、「だからこそ衝撃は大きい」とも率直に述べた(三牧聖子『Z世代のアメリカ』NHK出版新書、2023年)。
なぜアフガニスタンやロヒンギャなどの人道危機に比べて、ウクライナへの支援は(経済的な数字、メディア上の扱いなどを見るだけでも)これほど突出していたのか。そこには、「われわれ(白人・ヨーロッパ・キリスト教)に似た存在が攻撃されている」という感情が作用していた――少なくとも、原因の一部だったことは否定できないだろう。
もっとも、先入見があるからといって、ひとびとが即座に行動に駆り立てられるわけではない。先入見は多くの場合、抑圧され、無意識の層に沈んでいる。そうした感情が表面化し、行動の原動力となるのは、ナラティブとして構造化されたときだ。
ナラティブ、「物語」の持つ力
ナラティブとはようするに物語のことである。それは、ばらばらなファクトに連続性と方向性を与え、それらを語るに値するものへと変換する。ナラティブがあってはじめて、ファクトは共感や行動を生み出す力を持つ。裏を返せば、どれほど正確なファクトを積み重ねても、それがナラティブとして提示されなければ、多くのひとびとの心を動かすことはできない。
しばしば、ナラティブはファクトと対立するもののように語られる。しかし実際には、両者はむしろ補完関係にある。ナラティブなきファクトは脆弱であり、ファクトなきナラティブは空虚である。
なるほど、ナラティブは構築のされかたによっては陰謀論などへと転落する危うさを孕んでいる。だが、そのリスクがあるからこそ、ファクトを基盤とした、より健全で説得力あるナラティブを組み立てる努力が重要になる。
わたし自身、そのような問題意識にもとづいて、これまで歴史と物語の関係について論じてきた(「歴史に「物語」はなぜ必要か」など。『教養としての歴史問題』東洋経済新報社、2020年に収載)。
先入見はその性質上、そう簡単に変化するものではない。だが、ナラティブであれば再構成がしやすい。よりよい物語を提示することによって、先入見の方向性を少しだけずらしたり、揺さぶったりすることができるからである。
対立する主張をナラティブで統合する
わたしは歴史を生業としている人間なので、最後にこの問題について自身の領域でより具体的な説明を試みたい。
現代日本では、イデオロギー的な立場の違いによって社会の分断が進み、相互のコミュニケーションが難しくなっているといわれている。たとえば、保守的な立場のひとびとは日本の過去に肯定的な先入見をもち、逆に左派のひとびとは逆の見方をとることが多い。一般には、こうしたふたつの立場のあいだには深い溝があり、お互いにわかりあえないとされる。
しかし、果たして本当にそうだろうか。
たとえば、保守派が誇りとする歴史的事実のひとつに、1919年、国際連盟設立に際して日本が「人種差別撤廃」を提案したというものがある。世界に先駆けて人種平等を訴えたという点で、これはたしかに評価に値する行動だった。そのいっぽうで左派は、日本も朝鮮や台湾を植民地化しており、他民族を差別的に扱っていたと提案の欺瞞性を批判する。これもまた否定しがたい指摘だろう。
重要なのは、この両者の主張を対立的に配置するのではなく、ナラティブとして健全なかたちで統合するということだ。言い換えれば、過去に掲げられた理想の正しさを認め、それが実践と乖離したという歴史的経緯も正面から受け止めたうえで、現在や未来へと引き継ぐ新たな語りを試みるということである。
一例として、つぎのような語りが考えられる。
日本はかつて人種差別撤廃を訴えた素晴らしい国だった。しかし、その理想に反して誤った行動を取ってしまった。その点は反省しなければならない。だがそれゆえに、現代の日本は本来の姿を取り戻し、その理想を体現する努力をすべきではないか。より具体的には、そのような日本だからこそ、他民族や他国民への差別に徹底的に反対し、国際社会に向けて寛容と共生を呼びかける存在になるべきだ――。
これならば、左右を統合できるナラティブになりうるのではないか。
このような読み替えは、けっして珍奇なものでも独創的なものでもない。人類は古くから、こうした知的営為を繰り返してきた。古代ギリシャの民主制を肯定しつつ、その時代の奴隷制度は批判の対象としてきたように。また、人権宣言や独立宣言の理念を称えながらも、それらが白人男性中心主義に偏っていた点を同時に批判するというように(日本近現代史の読み替えについては、近刊『「あの戦争」は何だったのか』講談社現代新書、2025年に詳述したので、詳しくはそちらを参照されたい)。
冒頭で述べたように、プロパガンダを過度に恐れる必要はない。ただし、それが受け手の先入見と結びついたとき、ときに大きな力を発揮してしまう。では、先入見を取り除けばいいかといえば、そう簡単にはいかない。
だからこそ、われわれはナラティブの力を活用すべきなのだ。それが、プロパガンダがふたたび力を得ようとしている現在、われわれが取りうる現実的な選択肢のひとつなのではないだろうか。
<執筆者略歴>
辻田 真佐憲(つじた・まさのり)
1984年、大阪府生まれ。評論家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業。
政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。
単著に、『「戦前」の正体』(講談社現代新書)、『ルポ国威発揚』(中央公論新社)、『防衛省の研究』(朝日新書)、『超空気支配社会』(文春新書)、『大本営発表』(幻冬舎新書)、共著に『教養としての歴史問題』(東洋経済新報社)、監修書に『満洲帝国ビジュアル大全』(洋泉社)、共編書に『文藝春秋が見た戦争と日本人』(文藝春秋)などがある。
【調査情報デジタル】
1958年創刊のTBSの情報誌「調査情報」を引き継いだデジタル版のWebマガジン(TBSメディア総研発行)。テレビ、メディア等に関する多彩な論考と情報を掲載。原則、毎週土曜日午前中に2本程度の記事を公開・配信している。
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