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「ソ連の2年抑留は私の最大なる幸福」戦後の悲劇 運命を分けた帰還先、「ご苦労様と言ってほしい」台湾出身の元日本兵の苦難【報道特集】

国内
2025-12-27 06:00

先の大戦を生き抜いた台湾出身の元日本兵。彼らは100歳前後になった今も日本語を流暢に話します。一言でいいから「ご苦労様と言ってほしい」。そう話す彼らを待ち受けていた戦後の悲劇とは。


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「私たちは日本人だった」“台湾出身”と刻まれた慰霊碑

横浜市磯子区。終戦直後の闇市の面影を残す商店街「浜マーケット」。


細長いアーケードを抜けると、戦後80年の今年、出来たばかりの慰霊碑がある。そこにはこう刻まれている。


「台湾出身戦没者の方々 あなた方がかつて我が国の戦争によって尊いお命を失われたことを深く心に刻み永久に語り伝えます」


台湾出身元日本兵の慰霊碑。台湾人でも台湾籍でもなく「台湾出身」と刻まれているのは、戦争中は、みな日本人だったとの思いが込められているからだ。


今年7月、慰霊碑完成の法要が営まれた。この日を誰よりも待ち望んでいた、台湾出身の元日本兵・呉正男さん(98)の姿もあった。


呉正男さん
「台湾には日本人の慰霊碑はたくさんあるのに、日本には日本人が建てた台湾人の慰霊碑はない。私自身も死んだら誰も拝んでくれない、慰霊碑がないから」


日本人の手で慰霊碑を建てて欲しい。呉さんの30年来の願いだ。


2024年暮れ、人づてに呉さんの願いを知った真照寺の水谷栄寛住職が協力を申し出た。呉さんがよく口にする「祖国台湾 母国日本」と刻まれた碑も建てられた。


呉さんは日本の中学を卒業後、16歳で陸軍に志願し、航空部隊に配属された。終戦間際には特攻作戦への参加を名乗り出た。日本の軍人として死ぬ覚悟は出来ていた。


呉さん
「1945年7月に沖縄特攻に行くか行かないかの意識調査があった。そのときにもらった紙には『熱烈望』『熱望』『志望』。僕としては、順番が来たと思って『熱烈望』を選んだ」


出征のニュース音声
「台湾においても『米英撃ちてし止まん』の闘魂は火と燃えて――」


日本の植民地だった台湾の若者達が、日本兵としてアジア太平洋戦争を戦った。約21万人が軍人・軍属として南方のジャングルや中国大陸の激戦地に送られ、3万人以上が戦死した。


だが、日本の敗戦後も彼らの苦難は続いた。


「ソ連の2年抑留は私の最大なる幸福」抑留中の苦労を聞かれ…

終戦時、現在の北朝鮮にいた呉さんは、ソ連軍に捕らわれシベリアに送られた。


日本人捕虜約60万人が連行され、過酷な労働を強いられた、いわゆる「シベリア抑留」。重労働や食糧不足で6万人が死亡した。


呉さんが送られたのはカザフスタンの南部。寒暖差の大きい砂漠地帯だ。ここで運河の建設などに従事し、空腹と熱病に苦しめられた。


抑留中も、日本名「大山正男」を通した呉さん。2年間の抑留を終えると、日本行きの船に乗せられた。


そのまま日本に留まった呉さんは大学卒業後、横浜の華僑系金融機関の幹部となった。


抑留生活の厳しさをうかがわせる40年前の報道特集のインタビューが残っている。


呉さん(1981年放送「報道特集」より)
「(食事をもらうときに使った飯盒)少し膨れているのは、わからないように蓋を膨らませて、少しでも食料をもらうときに、入れる人が気付かないような膨らまし方で、わずか1口でも2口でも余計に食糧をもらおうという苦心の跡が見えるわけですね」


日下部キャスターが、呉さんの取材を始めたのは5年前。ソ連に抑留された台湾出身者がいたことに驚いたからです。


過酷な抑留体験を聞き出そうとするのですが、呉さんは「自分は運が良かった」と繰り返すばかりです。


慰霊碑完成の日も、記者たちから抑留中の苦労を聞かれ、こう答えました。


呉さん
「私はいろんなところで語り部として喋っているが、必ず私は『ソ連の2年抑留は私の最大なる幸福』だと。聞いた人はみんな不思議に思う」


ソ連抑留が長引いた事が幸福だったと言う呉さん。一方、戦後、台湾に戻った元日本兵にはさまざまな苦難が待ち受けていたのです。


その一端を知りたいと私は台湾に向かいました。


「ご苦労様でした」その一言が欲しい…元日本兵の苦難

台北郊外。戦後、台湾に戻ったものの、当局によって処刑寸前だった元日本兵がいる。


蕭錦文さん(98)。16歳の時、親族に内緒で陸軍に志願した。


蕭錦文さん
「大日本帝国軍の軍人になるつもりで志願した」
――軍隊の訓練は厳しかったでしょう?ビンタはいつもですか?
「ビンタはもう朝飯前ですよ」


元日本陸軍の軍人だった蕭錦文さん。ビルマ戦線に送られ、悪名高いインパール作戦にも参加した。兵站を無視した無謀な作戦で総崩れとなり、3万人以上が戦死した。


これは作戦の前、ビルマで遺影として撮った写真だ。


蕭さん
「インパール作戦ですか、参加しましたよ。もうなかなかきついですね、あの作戦は本当に。戦争は絶対やるもんじゃないと思った」


まさに死線をさまよった蕭さん。命拾いしたと台湾に戻ったが、待っていたのは当局による厳しい弾圧だった。


日本の敗戦により、台湾は中華民国に接収された。蒋介石率いる国民党による統治が始まったのだ。


歓迎する市民もいたが、外から来た少数派が台湾を支配する構図は日本時代と変わらなかった。ましてや、元日本兵にとって国民党軍は昨日までの敵だった。


蕭さん
「国民党に反駁するものは皆殺してしまうんですから。理由はない。捕まえて殺すだけで。私も捕まえられた」


戦後、新聞記者になった蕭さんはある日突然、拘束される。拷問を受け、目隠しをされ処刑場に向かう途中、裁判抜きの処刑を禁ずる新たな通達が出て、九死に一生を得た。


蕭さんは日本の軍人だったことをいまも誇りに感じている。


しかし、元日本兵たちが迫害されていた時、日本政府が何の手も差し伸べなかったことを忘れることは出来ない。


――戦後、台湾でご苦労されているとき日本政府は何かしてくれましたか?
蕭さん

「日本政府は何もしてくれません。もう見捨てられてしまった」

――もう遅いかもしれないけれど、日本には何をして欲しいですか?
蕭さん

「もう100歳になるもんですから。過去は『ご苦労様でした』と、その一言が欲しい」


「私は台湾生まれの日本人」103歳の元日本軍属が語る拷問

台湾南東部、台東市沖に浮かぶ緑島。リゾート地として内外の観光客の人気を集める。


「緑の島」という平和なイメージとは裏腹に、かつては「政治犯の島」と呼ばれていた。


日下部正樹キャスター
「ここには政治犯として緑島に収容されていた人たちの写真が貼られているんですが、名前の下のそれぞれ刑期ですよね。12年、8年、10年と非常に長い刑期を過ごしたわけです」


国民党独裁下の権力による人権弾圧を「白色テロ」という。1990年代に民主化されるまで、約40年間続いた。


政治犯収容所は現在、「人権博物館」として市民に公開されている。この建物は50年代の収容所を復元したものだ。


国家人権博物館 呂鴻祺さん
「当時、ここに120~150人が収容されていました。中には日本の教育を受けた人、かつて南洋や中国大陸に兵士として行った台湾籍の日本兵・軍属が含まれています」


国民党は日本の植民地時代の制度や文化を「遺毒」と呼び、その一掃を図った。日本式の教育を受けた知識人、元日本兵が弾圧の対象となった。


政治犯として緑島に収容された元日本兵がいる。


楊馥成さん(103)。日本軍の軍属としてシンガポールの補給部隊にいた。


終戦後、台湾に戻った楊さんは国民党の腐敗ぶりに絶望し、日本への密航を企てたが失敗、逮捕された。


楊馥成さん
「拷問は何回もありました。ひどい非人道の拷問。あの時、木刀で叩かれて痛い。叩かれて腫れてね。1週間くらい起き上がれない」


政治犯としての収容所生活は7年間に及んだ。「私は台湾生まれの日本人」と言う楊さん。「大井 満」は楊さんの日本名だ。


楊さんは日本政府を相手取り、日本国籍の確認を求める裁判を起こしたが、2022年に棄却された。


今も戦後、日本国籍を取り消されたことは「棄民」だと考えている。


楊さん
「戦後、台湾に帰ってきたらいつの間にか国籍が無くなっていました。棄民となったために、当時台湾に占領に来た蒋介石の軍隊から我々はどれだけ虐められてきたことか。おそらく日本の方々もわからないでしょう」


多くの元日本兵が迫害を受けた「白色テロの時代」。その発端となった事件がある。


「二・二八事件」怒りの声は瞬く間に…

新聞見出し
「台北暴動 死者四千人」
「人民の政府に対する不満」


1947年2月に起きた二・二八事件。中国大陸からやってきた国民党の高圧的な統治に対して、台湾の人々の怒りが爆発した。


日下部キャスター
「この建物は日本の植民地時代に建てられたラジオ局の跡です。二・二八事件当時、まだテレビは普及していませんでしたから、事件を伝えるにあたってラジオ局が果たした役割は、相当重要だったということです」


ラジオ局はいま、二・二八事件記念館となっている。そこで目撃者、93歳の陳萬益さんに会った。


きっかけは闇たばこを売っていた女性に対し、政府専売局の取締官が暴力をふるったことだった。


闇たばこ売りには、生活に困窮した台湾出身元日本兵も多かったという。


陳萬益さん(93)
「この目ではっきりと見た。たばこを売っている方と専売局の事務員と警察が喧嘩。たばこを売っている人はほとんど日本の元兵隊だから勝った。警察と事務員は逃げた」


混乱の中、警察官の発砲により死者が出た。


市民がラジオ局を占拠し決起を呼びかけると、怒りの声は瞬く間に台湾全島に広がり、各地で衝突が起きた。


しかし、国民党軍の武力により短期間で鎮圧。犠牲者は1万8000~2万8000人に達するという。


事件はタブー視され、語る事も禁じられた。


「目隠しはいらない」銃殺直前、元日本軍将校最期の言葉

台湾中央部の景勝地 阿里山。二・二八事件で処刑された元日本軍将校の息子が暮らしている。


先住民ツォウ族の湯進賢さん(78)。民主化以降、二・二八事件が公に語られるようになるまで、父親の身に何が起きたのか誰も教えてくれなかったという。


元日本陸軍少尉・湯守仁。日本名・湯川一丸。事件では多くの元日本兵が武器をとった。湯守仁さんは反乱を企てたとして銃殺された。


湯進賢さん
「父は青年たちを引き連れ山を下りました。嘉義の町に着くと、彼らを配置につけました。日本軍の士官だったので、どこに何人配置すべきかを理解していました」


阿里山のふもとの町、嘉義に向かった湯守仁さんは、国民党軍相手にゲリラ戦をしかけた。だが、国民党軍が増援部隊を呼んだ事を知り、部隊を撤収させた。


阿里山に戻った湯守仁さんに対し、国民党は懐柔工作を続ける。しかし、湯守仁さんはこれを拒み続け7年後、処刑された。息子の進賢さんが7歳の時だった。


湯進賢さん
「多くの人が泣きながら私の家に来ました。私たち子どもは何もわからず外で遊んでいました。父はもういないんだと少しずつわかってきました。遺影も無く、ただ骨壺(灰)があるだけでした」


進賢さんは、のちに父の処刑の時の様子を知った。


湯進賢さん
「銃殺される前に最後の酒を飲むことが許されます。父は処刑の前、仲間をこう励ましたそうです。『みんな胸を張ろう、目隠は要らない、酒も飲む必要はない』」


――お父さんが日本の陸軍に入らなかったら、人生は全く違うものになっていた?
進賢さん

「まだ生きてたかも(笑)」


運命を分けた「帰還先」シベリアから日本と台湾へ

12月8日、日米英開戦の日。私は呉正男さんと共に、横浜の台湾出身元日本兵の慰霊碑を訪れました。


呉さんにどうしても伝えたい事がありました。数少ない台湾出身のソ連抑留者の存在、そしてその彼が台湾で処刑された事実です。


日下部キャスター
「この方、湯守仁さんという方です。呉さんと同じようにシベリアで…」
呉さん
「彼は学徒動員?」
日下部キャスター
「志願です。二・二八事件の直前に台湾に戻った」
呉さん
「不運だったね」


抑留中、詳しい身元確認もされず、日本名を名乗り続けた呉さん。抑留は2年におよび、日本に返されました。


一方、将校だった湯守仁さんは日本人でないことが確認されると台湾に返され、銃殺されました。


戦後、台湾に戻った元日本兵たちを待ち受けていた悲劇。「ソ連抑留は幸福だった」。呉さんの言葉の真意はここにあったのです。


呉正雄さん
「僕は本当に幸せ。もう神様の配慮としか。一般の台湾の国民は祖国に帰るという期待が強かった。もちろんすぐ失望したから二・二八が起きた。そういう時に僕は幸いにも台湾にいなかったということで、非常にありがたいと思います」


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