
シリーズ「戦後80年を超えて‥パイロット「生きる」ことの尊さ」【第2話】
特攻。
第二次大戦下、航空機や小型艇に若き命を乗せ、敵軍に体当たりをする特別攻撃だ。
【写真を見る】「飛び立ったら、もう帰れない」16歳の少年はなぜ特攻を“熱望”したのか 紙一枚で迫られた選択と“最後の語り部”明かす死への覚悟
特攻は若き兵士たちの「志願」によって敢行された。6000人以上が国のためだと命を捧げ、散っていった。
特攻に志願した兵士の中には、成人に満たない少年たちまでもがいた。
その体験を語り継ぐ人は少なく、今なお証言ができる貴重な当事者の声に耳を傾けた。
16歳の少年から陸軍上等兵に 任務は「急降下しながらの爆撃」
飛行訓練に臨む前に、上野熊辰さん(97)は、ひとりの生徒の扱いから、陸軍上等兵の階級が与えられた。これは陸軍、国家としての保証の対象になることも意味する。
パイロットとして認められたのち、上野さんは「軽爆」の担当になる。軽爆とは機動性で敵基地や敵艦などを攻撃する、急降下しながらの爆撃などが任務だ。高度な技術、そして精神的な強靭さが求められる。
拠点は平壌。今の北朝鮮、ピョンヤンだ。
九九式襲撃機という低空飛行に強い戦闘機で訓練を繰り返す日々だった。異国のはずの土地で暮らし、空では、急降下、超低空飛行、地面すれすれの旋回、急浮上。
出陣に備えた。
「特攻隊」へ示された3つの選択肢「熱望」「希望」「希望しない」
1945年2月。艦船攻撃訓練を終えた上野さんたちは、「特別攻撃隊」編成の通達を受けた。
既に、前の年にはフィリピンレイテ島沖で、「神風特別攻撃隊」が編成され機体ごと敵艦に体当たりする戦術がとられていた。
「次は俺たちの番だな」
仲間同士でそう話していたため、驚きはなかった。示されたのは、一枚の紙。そこに書かれていたのは、たった三つの言葉だった。
「熱望」「希望」「希望しない」
迷わず選んだ「熱望」と分かっていた「もう帰れない」という事実
「この中から、どれかを書け、と」
上野さんは、迷わなかった。選んだのは、「熱望」。「怖くなかったですか?」と尋ねると、上野さんは当然のように答えた。
「飛行機乗りになった時から、いつ死んでもおかしくないと分かっていました」
「覚悟は、もうその前からできていました」
一度は特攻要員から外されるが、沖縄戦の激化で即戦力として鹿児島・万世飛行場を拠点する部隊へ送られる。
「飛び立ったら、もう帰れない」
仲間たちの出撃を見送り続けながら、その事実だけは、痛いほどに分かっていた。
【第1話】16歳の“子ども”が一人で空へ…97歳の元少年飛行兵が語る「死への覚悟」“最後の語り部”の記憶
【第3話】出撃当日に届いた終戦…死を覚悟した16歳の特攻兵は「頭が真っ白に」 最後の語り部が語る戦争のむなしさと思い「平和ボケでいい」
【上野辰熊さんプロフィール】
上野 辰熊(うえの たつくま)さん 97歳
1928(昭和3)年3月、山口県生まれ。
1943(昭和18)年10月、陸軍少年飛行兵として大刀洗陸軍飛行学校に入校、基礎訓練。
1944(昭和19)年4月、正式に任官し、京城教育隊へ配属。「赤トンボ」による飛行訓練。
1944(昭和19)年8月、九九式襲撃機の搭乗員となり、訓練や特攻機輸送などに従事する。
1945(昭和20)5月、鹿児島県の万世飛行場で沖縄航空作戦中の飛行第66戦隊に転属。
沖縄戦が終結したため、7月に大刀洗北飛行場へ転属。 8月、終戦を迎える。
終戦後、部隊は解散し、山口県の叔父の家で生活を送る。
現在は、飛行第六十六戦隊会連絡事務局長、万世特攻慰霊碑奉賛会(万世特攻平和祈念館・鹿児島県南さつま市)常任理事、陸軍少飛平和祈念の会 会長を務める
写真:帰還者たちの記憶ミュージアム 所蔵
今江大地(STARTO ENTERTAINMENT)が特攻隊員を演じる舞台「パイロット」。特攻隊員の目線で平和をテーマに、大戦中と現代の日本を表す。2月18日(水)から24日(火)まで、東京「赤坂 RED/THEATER」で。
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