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「おまえに出来ることがあるだろ!!」陸前高田の避難所運営のリーダーを突き動かした安否不明の“母の声” 東日本大震災から15年

国内
2026-03-10 06:30

<東日本大震災が3月11日に発生し、きょうで7日目を迎えた。ようやく日記を書くことができる。ここにくるまで多くの悲しみ、悩み、迷い、決断があった…>


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陸前高田市立第一中学校の避難所で実質的なリーダーを務めていた高橋勇樹さん(当時33)は、当時の日記を今も大切に保管している。母親の安否がわからない中、高橋さんは、被災者自身による「自立」にこだわり続け、地元の人たちによる避難所運営に奔走した。15年前の日記には自身を奮い立たせるように書き殴られた「葛藤」の記録も残されている。
(取材・TBSテレビ社会部 櫻井雄亮)


震災当日 避難所運営のきっかけとなった「母の声」

2011年3月11日の朝。祖父の代から続く「桜木家具店」の常務だった高橋さんは、理事長を務める青年会議所(JC)の会合のため、陸前高田にある店を慌ただしく出ようとしていた。


<今思うと、あの11日、店を出るときに母が言った言葉「あんまり急ぐなよ!!」が私の頭の中にまだ残っているが、顔は思い出せない…あの時、いつものようにぶっきらぼうに、足早に店をあとにしたのが、くやまれる…>(日記:3月11日の記録)


いつものような、そっけない別れ。その数時間後、高橋さんは花巻市で激しい揺れに遭う。母の携帯電話に何度も電話したが繋がらない。陸前高田へと車を走らせたが、午後4時半頃に辿り着いた地元の風景は一変していた。海から数キロ離れた川にまで瓦礫が散乱していた。自宅も会社も津波で跡形も無く流されたことを後に知る。


<高田の町が一変してしまった。たった数時間に…これはゲームでも映画でもない…まぎれもない事実…家がないということは父、母はどこにいるのか>(3月11日の記録)


市街地には車で入れず、泥に覆われた道を歩いた。ようやくたどり着いた避難所の第一中学校に、母や従業員の姿はなかった。


体育館では数百人が身を寄せ合い、発電機の投光器とストーブの明かりだけが頼りだった。「みんな下を向いて、すごい暗い雰囲気だった」。高橋さんは当時の避難所の雰囲気をこう振り返る。


母は別の場所にいるかもしれない。高橋さんが中学校を出ようとしたとき、ふと母の声が聞こえた気がした。


<その時だった…ふと誰かの声がきこえた気がした。「おまえに出来ることがあるだろ!!」この言葉が本当に聞こえた。私にできること、それはあの名簿をデータ化して、今後必要になるであろう避難者の一覧名簿をつくること。>(3月11日の記録)


高橋さんは車に偶然パソコンとプリンターを積んでいたことを思い出し、手書きだった避難者名簿をエクセルに打ちこみデータ化を始めた。市内で一番大きな避難所となっている第一中学校に残れば父や母に必ず会える。そう信じて、作業に没頭した。


<睡眠時間は2〜3時間程度だったと思う。ひたすらデータ入力をした。母の無事、父の無事、従業員の無事を願って。それが1日目だった。本当に現実離れした1日だった。>(3月11日の記録)


役割という「心の置きどころ」

翌3月12日の夜。避難所で校長や商工会の事務局長など、自然発生的に集まった有志による会議が開かれた。そこで、阪神・淡路大震災の支援経験を持つ青年会議所の高橋さんの先輩、戸羽幸輝さんの発言に拍手が起きた。


<「被災者の心を強くしていかなければならない」という一言だった。「何もしないと落ち込んでしまうだけ。何かきっかけを与えて、皆で取り組むという姿勢を見せなければダメだ」と発言した。皆から拍手が起こった>(3月12日の記録)


支援を待つだけでは、気力が奪われていく。自分たちでボランティアを組織して、被災者の自立を促そうという方針が決まった。高橋さんはスローガンを提案した。


<スローガンは分かり易く簡単なものがいいと思い、一人は皆の為に、皆は一人のために支えあってい(生)きましょう!!を提案した。この提案に皆ものっていただき、翌日からこのスローガンを書いた紙を貼り出した。本部スタッフで自主的に掃除を朝することにした。まず我々が動いて皆を、皆の心を動かそうと…>(3月12日の記録)


高橋さんと同じように家族の安否が分からない人も多かったが、飲食店経験者が毎日の炊き出しを仕切り、栄養士が献立を考えるなど、地元の人が物資班・食事班・医療班などに分かれて自主的に避難所運営にあたった。毎朝の掃除も、トイレ清掃も、避難者全員がグループに分かれて行った。


「みんな大変な思いをしている中で、お互いがそれぞれ役割を持って支え合って運営していくことで『心の置きどころ』ができたんだと思います。私もそうでした」


そんな中、3月13日、高橋さんは父と無事再会を果たす。しかし、母の安否は分からないまま。高橋さんは避難所運営の合間を縫って遺体安置所を回り、母を捜し続けたが、一向に手がかりは掴めない。


高橋さんをさらに悩ませたのは、親戚や会社からの風当たりだった。親戚から「ボランティアなんかしていないで、お母さんを探せ」と言われたこともあった。2つの店を流され危機的な状況に陥っていた会社も、避難所でボランティア活動に打ち込む高橋さんに十分な理解を示してくれなかった。


<おじさんに今やっていることはおかしいんじゃないか?と再三言われる。家族を探すのが大事と!!(中略)いま、できることをする!!自分にしかできないことを!!今する!!>(3月25日の記録)


<今のボランティア活動、仕事、母親探し。平行して出来ない状態!社長からもきょうTELがくる。どう考えているんだと(中略)お客様を捨てることは出来ない!!地域復興に向けての活動を捨てることはできない!!従業員のことも考えなければならない!!母親と会わなければならない!!>(3月25日の記録)


いくつもの重圧の中で、高橋さんは日記のページに自らを奮い立たせる言葉を書き連ねている。


<今の自分の状況
・経営を立て直さなければならない
・母を探さなければならない
・JC(青年会議所)として支援してくれる仲間の協力を受けなければならない
・個人としての動きではなく、大勢の人たちのために動きたい、役立ちたい
・皆が困っている時に個人の利(益)だけは求められない。同じ境遇の人は沢山いる
・同級生の帰るまちをつくらなければならない
・亡くなった友、JCメンバーのためにもこの地域をなんとかしたい
自分にしかできない!!今の状態だと…>
(3月25日の記録)


<俺は会社の再建と社会の再建の両方をやるしかない!俺ならできる!!絶対できる!!だから母が11日の日にここの一中に呼び戻したんだろう!!ここからやるしかない!!>(3月25日の記録)


「我々でやります」避難者全員で行った区画整理

4月に入ると、高橋さんの視線は避難所の運営からさらに先、街の未来へと向けられ始める。震災から1か月もたたないうちに、高橋さんは同世代の仲間たちと将来の「街のグランドデザイン」を描き始めていた。


<新高田市のグランドデザインを考える。(中略)今は新しい街をつくるチャンス><今はこの街をどうするか、どういうビジョンをもって動くか、そこを自分は大切にしたい。>(4月8日、11日の記録)


「誰かが方向性というか、夢でもいいので、高田をこうしたいという明るい目指すものがあると違うんじゃないかと」。高橋さんたちが描いたのは、サークル状に住宅を配置し、中央に井戸や備蓄庫を置いて避難所としての機能も持たせた「新しい街」の姿だった。津波の予測システムの開発拠点の整備や防災を考える研究拠点として大学の誘致も盛り込んだ。


街の未来図を描く一方で、避難所の現実的な課題も山積していた。体育館には物資が増え、居住スペースに不公平が生じていた。早くからいる避難者が広い場所を取り、後から来た者が狭い隙間に追いやられる。2階の通路にいる避難者と、1階にいる避難者の間には、視線を巡る疑心暗鬼も起きていた。高橋さんが避難者からクレームを受けることもあった。


高橋さんたちは「区画整理」を提案した。体育館の荷物を一度すべて外に出し、ルールに基づいて場所を割り振り直す。高橋さんたちはこの作業を「被災者自身の力」でやり遂げることにこだわった。


「自衛隊やJC(青年会議所)の方にも『基本、我々でやります。重くて動かせない時だけ手伝ってほしい』と伝えました」


4月16日、引越し業の経験を持つ避難者が荷物の積み込みを指導し、約500人の避難者がJCが用意した20トントラックに荷物を移した。翌17日の朝から空になった体育館を全員で掃除し、新たな区画にダンボールを敷き詰め、トラックの荷物を新たな区画へ移動した。


「自衛隊の責任者が『指示がないからダメだ』と言って手を出そうとした隊員を止めるんです。ちゃんと理解してもらって本当に嬉しかったですね」


2日目の作業は予定時間を5時間ほどオーバーし、午後5時までかかった。すべての作業を終えた時、体育館に大きな拍手が湧き起こった。


「自衛隊がいるから手伝ってもらえば、と思うかもしれないんですけど、そうじゃなくて自分たちのことは自分たちでやろうと思ってもらえたんだなと思って、感動しました」


いつまでも被災者ではいられない

5月1日。第一中学校の避難所は「絆の丘」という名称になり、避難所の自治会組織が発足した。避難者が使用できる1人あたりの広さに関するルールも決め、食事の後片付けや配膳なども班ごとに分担し、1日交代で行うことを決めた。


この日行われた「発足会」の最後に高橋さんは挨拶に立ち、避難者に向けて語りかけた。


<「私も家を失い、経営していた店を2つ失い、まだ母も行方不明。皆さんと同じ被災者ですが、少しずつ、なんとか一歩でも前に進もうとしています。私たちはいつまでも被災者ではいられないんです。私たちの自立が早ければ早いほど、陸前高田市は早く復興します。そのことを忘れずに、皆との絆を深めて、この避難所生活をしていきたいと思います」>(5月1日の記録)


この時の思いを高橋さんはこう振り返る。


「行政も大変だったので行政の負担を減らすためにも、自分たちが1日も早く自立できるようになることが最善なんだろうと考えていました。大変だろうけど、自立を目指して動くことで、前を向いて歩くことができると思うので」


5月29日、日々の緊張をほぐすため、第一中学校で避難者600人規模の大バーベキュー大会が実施された。あいにくの雨だったが、建設関係の避難者が重機で巨大なブルーシートを吊り上げ、テントを作った。岩手の老舗酒蔵「南部美人」が提供してくれた酒を飲み、最後は地元の音頭をみんなで踊った。


<雨対策で大テントの設営に大成功した。皆の知恵と努力で出来た仮設テント!!意地でも雨でも外でやりたいとの思いが通じた。(中略)皆楽しそうにBBQコンロをかこみ、飲んで食べてお互いを慰労しあっていた。まさに想像していた光景だった。>(5月29日の記録)


この日、高橋さんは周囲からも酒を勧められ、震災後初めて記憶をなくすほど酒を飲んだ。この時点でも、母の手がかりは掴めないままだった。


あれから15年  街を生かすために

高田第一中学校の避難所はこの年の8月に閉所した。その3か月後の11月、高橋さんの父の勇太郎さんが脳出血でこの世を去った。母のフサ子さんの行方は分からず、死亡届を出し、両親の葬儀をともに執り行った。


昨年、高橋さんは祖父の代から続く桜木家具店の社長に就任した。大船渡市で大規模な山火事が発生し大きな被害が出た際には、被災した人々に家具を安価で提供し、支援に動いた。高橋さんは今も地元のために自らができる役割を果たし続けている。


避難所の運営で被災者の「自立」にこだわった高橋さんだが、街の復興においても、地元住民が自ら動き、発信することが大切だと考えている。


「後世の人に同じ経験をさせたくない、その思いで震災遺構の保存を県の会議で訴え、委員の専門家の方にも『高橋さんの一言で迷いを断ち切ることが出来た』と考えを受け入れてもらいました。その後完成した高田松原津波復興祈念公園には旧道の駅などの遺構が保存されていて、1人1人が意見を出していくことで街が動くことを実感しました。この街をどうするかは最後はここで生きていく人が決めていかないと。ここに住む人が発信して街をつくっていかないと、街が生きてこないと思うんです」


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