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【追悼】もう一つのロッキード事件 “政財界のフィクサー”大物右翼の児玉誉士夫と中曽根康弘元総理大臣の関係とは・・・総額1兆円の軍用機「P3C」納入をめぐる闇 「背筋がぞっとしました」堀田力弁護士の述懐 平成事件史(23)

国内
2025-03-01 11:57

1976年、日米を揺るがす戦後最大の疑獄が幕を開けた。
ロッキード社は、世界トップクラスの軍用機を主体とするメーカー。アメリカの「CIA」とも繋がりが深く、「CIA」の偵察機や米軍の航空機などを製造していた。


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東京地検特捜部が当初、狙いを定めたのはロッキード社の秘密代理人で、政財界のフィクサー、黒幕の児玉誉士夫に流れた「21億円」だった。この「21億円」は、軍用機である対潜哨戒機「PC3」の売り込み工作のために政治家に流れたとされ、児玉と深い関係にあった防衛族で、自民党幹事長の中曽根康弘の名前も浮上していた。


しかし、最終的に「児玉ー中曽根ライン」の捜査は不発に終わった。
理由のひとつは、児玉本人の病気と、ロッキード社の交渉に立ち会っていたキーマン福田太郎通訳の死去であった。


国会は児玉に「証人喚問」への出頭を求めたが、児玉の主治医だったK教授は「脳梗塞の後遺症がある」と拒否し、「証人喚問」は実現しなかった。


ところがーー事件から25年後の2001年、事態は急展開する。
児玉の主治医だったK教授の部下の医師が、ある月刊誌に衝撃の手記を寄せたのだ。そこで児玉の診断が、実は「虚偽」だった疑いが明らかになったのだ。
筆者は部下の医師と面会し、当時の生々しいやりとりを聞くことができた。
さらに、詳しく事情を知る国会関係者も口を開きはじめた。


児玉が「証人喚問」を免れたナゾそれは長い時を経て、ようやく解き明かされつつあった。


(20)(21)(22)に続いて、堀田弁護士追悼の4回目はロッキード事件の最終回としたい。


「本命」とされたロッキード社の対潜哨戒機「P3C」輸入をめぐる「児玉ー中曽根ルート」の捜査はなぜ見送られたのだろうか。
その舞台裏で繰り広げられていた攻防の一端を描く。


児玉誉士夫の口を封じたのは・・・・

1976年2月5日、アメリカ議会上院公聴会で明らかになったロッキード社からのカネは3つのルートを通じて流れたとされた。


・秘密代理人・児玉誉士夫への「21億円」
・日本の代理店商社「丸紅」への「5億円」
・トライスターを購入した「全日空」への「2億円」


このうち最大の焦点は、ロッキード社から戦後最大のフィサー、児玉へ流れた「21億円」だった。
事件が発覚から5日経った2月10日、国会は真相究明のために児玉に国会の「証人喚問」への出頭を求めた。
しかし、2月12日、児玉の主治医だった東京女子医大のK教授は記者会見で「証人喚問」は不可能と発表。
さらに2月14日になって「児玉は脳梗塞の急性悪化状態にある」との診断書を提出、「証人喚問」には応じられないと説明した。


そんな中、一部のマスコミがこう報じた。


「児玉は、K教授の診断書が提出される数日前に埼玉の久邇カントリーでゴルフをしていた」
「ゴルフ場のレストランの支払いレシートも確認された」


これを聞いた衆院議長の前尾繁三郎は激怒する。
前尾は「もし、これが本当なら、児玉の診断書には「虚偽」の疑いがある」として、真偽を確かめるために、国会で独自に医師団を組んで、児玉邸に出向いて診察するよう命じた。


国会の医師団は1976年2月16日夜、自宅にいる児玉を診察した。
その結果、児玉の意識はもうろうとしていて、「重症の意識障害下にあり、証人喚問には出頭できない」と判断したのであった。
つまりK教授の診断書と同じ結論に至ったのである。


しかし、これには「重大な裏事情」が隠されていた。
K教授の部下だった天野惠一医師が、「新潮45」2001年4月号において衝撃の手記を寄せたのである。


「国会の医師団」が、児玉の病気を確認するために、児玉邸に到着したのは、1976年2月16日の夜10時頃であった。
たしかに、児玉は意識がもうろうとしていたため、医師団は「脳梗塞の後遺症」と判断したという。


しかし、天野医師によると、実はその日の午前中のうちに、主治医のK教授が先手を打って、児玉邸に赴いて、2種類の「強い睡眠薬」を注射をしていたと証言する。


一体、何が起こっていたのだろうか。

筆者は2025年2月6日、今なお現役医師として活躍する天野医師に直接会いに行った。83歳となった天野医師は、東京・神谷町駅前の「脳神経センター」で日々、患者を診察している。その眼差しには、あの日の記憶が色濃く刻まれていた。

天野医師によると1976年2月16日のK教授とのやりとりはこうだ。


その異変は、「国会の医師団」が児玉邸に向かう日の2月16日の午前中、東京女子医大の脳神経センター外来診察室で起きた。


「となりの診察室から大きな声が聞こえ、何やらただならぬ様子で、あわてて往診の準備をしていたK教授が立ったまま、こう切り出しました」(天野)


「これから、児玉様のお宅へ行ってくる」 


K教授は、児玉を必ず、「児玉先生」ではなく「児玉様」と呼んでいた。
教授ともあろう立場で、常に「様」をつけていた。


そして天野医師は尋ねた。


「国会の医師団が児玉邸に派遣されるという話がありますが、なぜ先に行くのですか」


K教授は平然と答えた。


「国会の医師団が来ると児玉様は興奮して脳卒中を起こすかもしれないから、だから、そうならないように注射を打って対策を施すのだ」


「何を注射するのですか」


「フェノバールとセルシンだ」(K教授)


天野医師はK教授の言葉に耳を疑った。

フェノバールはどうしても眠れない患者や、てんかん発作の発作の際に使われる強力な睡眠剤であり、また、全身麻酔をかかりやすくするための前投薬にも使われるという。

セルシンもまた、興奮状態の患者を鎮めるための強力な睡眠薬である。
これらを同時に使用すれば、数時間にわたって昏睡状態に陥り、患者は口も利けなくなるのだ。


天野医師は必死に引き止めようとした。


「先生、そんなことしたら、医師団が来ても児玉さんは完全に眠り込んだ状態になっていて、診察できないじゃないですか。
そんな犯罪的な医療行為をしたらえらいことになりますよ、絶対やめてください」


しかし、K教授は一蹴する。


「児玉様は俺の患者だ。口を出すな」


児玉への注射を止めさせようとした天野医師に、K教授は激怒し、看護師の持ってきた薬剤と注射器を往診カバンに詰めて、急いで出ていったという。


天野医師はこう振り返る。
 
「これらの注射によって生じる昏睡状態は、重症脳梗塞による意識障害と酷似していて、見分けがつかない。もちろん血液や尿を採取すれば、薬物の存在を確認することはできます。しかし、国会の医師団は、まさか児玉にこのような注射が意図的に打たれているとは考えもしなかったでしょう。それ故、彼らが児玉の症状がこのような注射によるものだと見抜けなかったとしても無理はありません」


つまり、国会の医師団が診断した「重症脳梗塞による意識障害」は、実はK教授が事前に打った注射によるものであった。
K教授は「国会の医師団」が報告する診断書が、14日に自分が提出した診断書と矛盾しない結果になるよう、あらかじめ児玉を眠らせ、証言を封じ込めようとしたのだ。


そのため、K教授は何としても「国会の医師団」が到着する前に、児玉に注射をして眠らせなければならなかった。


つまり、K教授が14日に提出していた「重症脳梗塞による意識障害」は「ねつ造」されていた疑いが強く、国会の医師団もだまされたのだ。


天野医師は「明らかに児玉を『証人喚問』に出させないための『口封じ』工作が行われた」と断言する。


これを境に、K教授と天野医師の仲は険悪になったという。
その後、天野医師自身もK教授の指示で、別の医師と2人で、児玉邸に8回ほど点滴のために往診した。


このときもK教授から「児玉様には話しかけるな」と釘をさされた。
3月には東京地検特捜部による児玉への臨床尋問も行われたが、この間、児玉の治療方針をめぐって天野医師とK教授の対立は深まる一方であった。


1988年、K教授は定年退職を前に医局員を集めて「天野を追い出せ」と演説、定年後も後輩の歴代教授に絶大な影響力を行使した。
以降、天野医師は教授選に5回立候補したが、昇格できず、さらに病棟医長を解任され、手術の機会を減らされ、研究班も解体されるなど、K教授の弟子だった主任教授からさまざま嫌がらせを受けた。


あるときは郵便物が抜き取られたり、患者待合室の名札が取り外されたり、パソコンのプリンターにのりが塗られるなど、嫌がらせはエスカレートし、1999年には専用の個室も剥奪され、2000年には担当の講義も外された。
これに対して、天野医師は2000年4月、「退職理由は職場のハラスメント」と書いた辞表を学長にたたきつけた。


そして、東京女子医大と主任教授を相手取って、損害賠償を求める訴えを起こすに至った。


「昇格差別を受けて、25年間も助教授として留め置かれた末、執拗な退職を強要されて職を失った」(訴状)


2003年、一審の東京地裁は「天野医師の上司である主任教授が行った違法な退職勧奨は、ことさら侮辱的な表現を使って、名誉を毀損しており、許容限度を逸脱している」と認定し、450万円の賠償を命じ、2004年に最高裁で確定した。


さらに判決では、主任教授が天野医師に対して「お荷物的存在」「生き恥をさらすより、ふさわしい場を見つけてほしい」「助教授から助手に降格する」などと発言していた事実も認定された。


ある自民党の秘書は児玉の診断についてこう回想する。


「当時は前尾衆議院議長ら、実は関係者もK教授を怪しいと感じていた。児玉様と呼んでいる教授の診断書を誰が信用できるのかと・・・・・」


「国会医師団」の訪問日時は漏れていたのか・・・

天野医師の告発を裏付けるかのような証言がのちに世間を驚かせた。
元参議院議員で、当時は前尾衆院議長の秘書だった平野貞夫だ。
このとき、平野は「国会の医師団」派遣の調整作業を行なっていた。


平野氏は当時から、「極秘事項」とされた児玉邸への「国会の医師団」派遣の日時が、事前に漏れていたのではないかと疑念を抱いていた。
その「情報漏洩」を平野が確信したのが、やはり前述の天野医師の告白であった。


平野は著書でこう述べている。


「注射による意識障害や昏睡状態は、重症の脳梗塞による意識障害と酷似していたため、仮に国会医師団が見抜けなかったとしてもおかしくない」


平野がK教授が児玉邸を訪れたタイミングについてこう語る。


《わたしは前尾繁三郎衆院議長の議長秘書として「医師団派遣」の調整に関わっていたので、時系列の記憶に間違いはない。
この日、2月16日は国会の医師団の派遣をめぐり、衆議院の予算委員会理事会が紛糾していた。やっと「医師団の派遣」が決まったのが、正午過ぎで、メンバーが揃ったのが午後4時頃だった。
そこから当日に行くべきか、翌朝に行くかを検討し、最終的には夜7時になって当日の派遣が決まった》


しかしK教授は、その日の午前中、国会の医師団の派遣が正式に決まっていない時点で、すでに児玉邸に赴く手はずを整えていた。
つまりK教授は、国会の中枢や与党幹部などから情報を入手していた可能性が高い。


平野はこう確信している。


《つまり、児玉の主治医のK教授は、「国会の医師団」の派遣がまだ正式に決まっていない16日午前中に、すでに「国会の医師団」が今日中に児玉邸を訪問する”ことを知っていた。医師団の派遣は「機密事項」だったにもかかわらず、なぜK教授は知っていたのか。それは、国会運営を取り仕切る中枢にいて、かつ児玉の主治医にもコンタクトできる人物が情報を流していたとしか考えられない》


そこで、重大な疑問は「国会の医師団」の訪問予定時間を、K教授に事前に伝えたのは誰なのかということである。


「医師団を派遣するかどうか、いつ派遣するかどうか、というのは、当然、与党の幹事長、国対委員長は知る立場にある。そこで、医師側(K教授)に情報が流れて、対応したんじゃないか」(平野元参議院議員)


児玉と昵懇と言われた中曽根は当時、三木武夫内閣で自民党幹事長として当然、真っ先に情報を知る立場だった。


佐藤栄作内閣最後の防衛庁長官を務め、運輸大臣も経験していた中曽根は、防衛族の中心にいた。中曽根は防衛庁長官時代に、対潜哨戒機の「国産化」を主張していたが、「あるとき、国産派から一転して輸入派に翻意した」と国産派から批判された。


東京地検特捜部も当初、関係者の事情聴取などから、ロッキード社が「中曽根の親分」である児玉に働き掛けて、中曽根が対潜哨戒機の国産化を断念するよう頼んだのではないかとの見立てをもっていた。
しかし、ロッキード社の「捜査資料」のなかに、中曽根に結びつくような「証拠資料」は見つからなかった。


また前述の通り、コーチャンは「回想録」のなかで「児玉を通じてロ社から依頼を受けた中曽根が“経営危機”を回避してくれた」と記している。(中曽根側は否定)
いずれにせよ、日本政府は1972年、「国産化」を「白紙撤回」し、ロッキード社製の「P3C」を輸入することになった。


平野貞夫はこう締めくくる。


「もし児玉の証人喚問が実現していたら、事件は違った方向に展開していた可能性がある。ロッキード社から丸紅経由で田中角栄が受け取ったのは「5億円」、一方、ロッキード社から児玉に渡ったのは「21億円」だ。児玉の証言が得られなかったため、東京地検は狙いを田中角栄一人に絞り、逮捕に全力を傾けた。もし検察が児玉ルートに切り込んでいたら、ダメージを受けたのは中曽根だったはず」


堀田の回想「深い闇に一本の細い光を射した」

2010年、朝日新聞が「ロッキード事件発覚時に中曽根が米国に「もみ消し」を要請していた」というスクープを報じた。
自民党幹事長だった中曽根が、密かにアメリカ側に接触し、政府高官の名前を出さないよう「もみ消し」を国務省に要請していたという衝撃の事実だった。


ロッキード事件が発覚したのは1976年2月4日。
2週間後の2月18日、さっそく三木武夫総理が米側に捜査資料の提供を要請した。
朝日新聞が報じた米公文書によると、三木総理の状況について中曽根は「苦しい政策」と表現した上で、「そういう公開、暴露はできるだけ遅らせてほしい」とアメリカ側に依頼したという。


しかし、翌2月19日の朝、中曽根は再びアメリカ側に接触し、前日の夜のメッセージを変更したいと申し出る。


そして新たに伝えたメッセージはこうだ。


「私はアメリカ政府がこの問題をもみ消すことを希望する」


「もみ消す」は「hush up」という表現が使われ、その後ろに「MOMIKESU」というローマ字で中曽根の言葉がそのまま記録されていたという。
これは当時の駐日米大使から国務省に届いた公電の写しとして、フォード大統領図書館に保管されていた。


記事によると、中曽根は「もみ消し」を頼んだ理由として、「政府高官名が公表されると三木内閣の崩壊、選挙での自民党の完全な敗北、場合によっては日米安保の枠組みの破壊につながる恐れがある」と米側に説明したという。


この事実をスクープした元朝日新聞記者の奥山俊宏・上智大学教授はTBSラジオでこう話している。


「ロッキードのカネを受け取った政府高官が誰なのかというのは国民の関心事でした。そうした中、中曽根さんは『臭いものには蓋をしない』ということを公の場で述べていた。また『政府与党は一体となって徹底的に究明する覚悟だ』とも語っていたようだ。

中曽根さんは、つまり表では真相究明をするということを言いながら、裏ではアメリカ政府にもみ消すことを希望するようなことを、アメリカ政府に頼んでいたことが、この文書で裏付けられた、発見できたことは驚きでした。中曽根さんからは秘書を通じてノーコメントでした。ただし、アメリカの公文書に記録として残っているので、これを否定するのは難しいかと思います」
(2024年12月24日 TBSラジオ『荻上チキ・Session』)


ある捜査関係者はこう指摘する。


「中曽根は政府高官名が公表されると「日米安全保障の枠組みが壊される」と主張したと言うが、そうではなく、児玉と懇意だった中曽根にとって『児玉ルート』がそれ以上広がらないように保身を図ったということだろう。
中曽根の「もみ消し要請」には、自身の名前を出さないように、という意味が込められていたのではないか」


当時、田中派を担当していたTBSテレビ政治部OBはこう語る。


「のちに誕生する中曽根政権は、旧田中派の後押しで成立した『田中曽根内閣』と揶揄された。中曽根は、ロッキード事件の渦中において、表では三木政権の自民党幹事長を務めながら、裏では田中にすり寄っていた。“風見鶏”らしい立ち回りだった。かつて、吉田茂を対米従属と批判して政治家になったが、1982年11月に総理大臣に就任すると、一転して『日米同盟の強化』に乗り出した」


つまり、中曽根はロッキード事件でアメリカ側に「もみ消し要請」をしたという「弱み」を握られた。こうしてアメリカに外交の主導権を握られ、「日米同盟強化」に向かったのだろうか。


堀田はロッキード事件を振り返ってこう証言している。かなり本音に迫ったインタビューなので、そのまま引用する。
(NHK「未解決事件」取材班「消えた21億円を追え」朝日新聞出版より)


「あの事件は、日本にはびこる 闇のほんの端っこに過ぎない。
ただあれ以上は触れられない事件だった。国家権力を監視する 東京地検特捜部といえども 触れられないことがある。
田中角栄を逮捕できたことだけでもすごいことで、完璧にやれたと我々は自負している。
ただ、本当の闇の部分に触れたら、全てが水の泡になってしまうギリギリの戦いだった」


「しっかり解明されていないところはたくさんある。 
例えば、 田中角栄は5億円を受け取ったが、1回の選挙で当時 何百億円も動かすと言われてきた人ですから。 田中にとって 5億円が“はした金”とは言わないまでも、 他にもまだまだ動いているはず。
そういったことも全部解明して、その中でこの事件がどういう意味を持ってるか、本当は追及していかないといけない。でもとってもそんな力は検察にはない。
そこまで解明できる証拠も得られてない。
結局、 ロッキード事件で解明されたのは一部だけに終わってしまった。 
だから 全体像が見えてない 。
(ロ社が対日工作で使った)あのカネの“意味”が見えていない 。
だからみんな 今でも『おかしい』とか『陰謀』 じゃないかとかいろんなことを言う」


堀田は核心とされた対潜哨戒機「P3C」については、こう答えている。


「確かにどう考えても 『P3C』でカネの動きがいろいろあるはずなんだけど・・・・
(児玉がロ社から)うまくカネを取る巧妙な手口は、証言で取れている。
しかし、(そこから先の)カネの使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。
 ロッキード社は『軍用機部門』と『民間機部門』で、経理も何もかも違う。
民間機の部分では証言やデータも取れたけど、軍用機のほうは全然取れなかった」


「捜査って、普通はいくつかの可能性で見込みを立てて、そこから証拠を固めていって、こっちはない、あっちはないと消しながら だんだん 絞り込んでいく。
そして最後の1本がはっきりすれば それで起訴する。 

『P3C』はアメリカからの『捜査資料』が全くないので、もうありえないとなった。『P3C』 が消えれば、コーチャンが公聴会で証言しているように『 トライスター』でいくしかない。

いろんな、目に見えないところにある犯罪を、表に出すっていうのが検事の役割なんだけど、アメリカから出てきた資料をもとに、その範囲内では全容解明できたかもしれなが、それ以外のところは解明できていない」


「ただ、それはもう凄く深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く、深い闇の部分に一本の光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば、検察にもっともっと、暗闇のところを全部照らしてくれって、一本だけではわからないって、思われるのは無理もない。
そこは悔しいっていうか、 申し訳ないっていうか、 情けないって言うか・・・・・」


もう一つのロッキード事件と言われた対潜哨戒機「P3C」の防衛庁への売り込み工作をめぐる深い闇。
「トライスター」という民間旅客機の不正とは比較にならない規模の日米の大疑獄に発展した可能性もあった。
「軍用機」のビジネスは金額も桁違いであり、米国にとって極めて重要な輸出品である。


日本はアメリカの圧力で自主開発を断念、1機「100億円」を超える対潜哨戒機「P3C」を「100機」買わされたように映る。
アメリカにとっては総額約1兆円に上る大商いである。それにより、日本は世界で第2位の「P3C」の保有国となった。
「軍用機利権」こそ、ロッキード事件の“もう一つの核心”だった。


大どんでん返し—最高裁が「嘱託尋問」を証拠採用せず

堀田は、ロスから帰国して息つく間もなく、1977年1月に始まったロッキード裁判の公判検事として補充捜査に関わった。


1983年1月26日。
初公判から6年、法廷で田中角栄と対峙してきた堀田は、論告求刑で静かにこう述べた。


「この事件は、厳正な処断を欠くときは、民主政治の根幹を揺るがせることになる」


その上で、田中に懲役5年、追徴金5億円を求刑した。


田中側は一貫して全面否認を貫いていた。
上智大学の渡部昇一教授らをはじめ、「ロッキード裁判は“暗黒裁判”だ」と批判を展開する識者も少なくなかった。
しかし、1983年10月13日、東京地裁の岡田光了裁判長は田中角栄に対し、実刑判決を言い渡した。


「懲役4年」「追徴金5億円」


さらに二審の東京高裁も一審判決を支持。


田中角栄は上告中に死亡したが、1995年2月、榎本秘書、丸紅幹部に対する最高裁判決によって、田中元総理の「5億円」の収賄の事実が認定された。


しかし、このとき最高裁判決で示された判断は、「嘱託尋問」に奔走した堀田にとって、看過しがたい内容を含んでいたのだ。


最高裁はあろうことかこう断じた。
「検察当局がコーチャンらに与えた『刑事免責』下での証言は、日本の法制度下では証拠として採用できない」と。
理由は明快だった。免責を条件に強制的に得た供述調書を証拠とするのは、日本では認められていない「司法取引」にあたる。
ゆえに、コーチャンやクラッターの「嘱託尋問調書」には「証拠能力がない」と結論づけたのである。
つまり、違法な手続きで収集された証拠は、たとえ他に手段がなかったとしても「証拠価値」を持たないーー。


その日、最高裁の判決内容を聞いた堀田は、TBS記者のインタビューに応じ、悔しさをあらわにした。


「判決を聞いた瞬間、背筋が寒くなる思いでした。
もし現役の検察庁に在職中だったら、これは辞職を覚悟しないといけない内容ですが、判決はあまりに突っ込みが甘く、驚きでした。

これ(嘱託尋問証書)が証拠として認められないなら、『外国企業が日本の政治家に賄賂を渡しても大丈夫』と、世界中に伝わったも同然です。この種の国際犯罪が摘発困難になり、はびこるでしょう。

“嘱託尋問”は、ロッキード側から証拠を収集する唯一の手段だったことは明らかです。これはおかしい。最高裁が完全に誤った判決を下したうちのひとつになるでしょう」


もっとも、最高裁の判決は、「嘱託尋問調書」に頼ることなく、それ以外の証拠によって「丸紅ルート」に対する「有罪判決」は揺るがなかった。
ロッキード社から丸紅を通じた田中元総理への「5億円」のワイロの授受は最高裁によって明確に認定されたのである。


とくに決め手となったのは、一審で検察側の証人として出廷した榎本秘書の元妻の供述だった。 
「夫が5億円を受け取ったこと」や「日程表や書類などの証拠を焼いた」ことを証言したのである。
車中での夫婦の会話などを語ったこの証言は、ロッキード裁判の趨勢を決定づける「検察側の隠し玉」となった。


そして元妻は証言後の記者会見でこう述べた。


「ハチは一度刺したら死ぬと言われています。いまの私はハチと同じ心境です」


この発言はのちに「ハチの一刺し」として流行語にもなった。


ロッキード事件では田中派の橋本登美三郎、中曽根派の実力者・佐藤孝行も有罪判決を受けた。被告となったのは児玉や小佐野、全日空や丸紅の役員ら16人にのぼった。


だが、「巨悪」はまだ深い闇の中にあった。


「P3C」軍用機の1兆円規模の利権構造ーーアメリカ航空業界では、各国の秘密代理人を通じた権力者へのワイロが常態化していたという。
「いかに性能が優れていようと、ワイロなしに軍用機は売れない」ーーそれが現実だった。
「日米安保関係強化」の陰でうごめいた「軍用機利権」の不正疑惑は、闇に葬られた。


「総理大臣の犯罪」にまで到達したロッキード事件。
しかし、それは「日米安保」と「利権構造」をめぐる巨大な氷山の、一角にすぎなかったのか。


昭和の闇は深い眠りについた。
だが、平成を経て、令和となった今も、その真相発掘は続いている。
そして、堀田が亡くなった後も——。


(つづく)


#####
TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
 岩花 光


◇参考文献
堀田 力    「壁を破って進め 私記ロッキード事件(上下)講談社、1999年
立花 隆 「ロッキード裁判傍聴記」全4巻、朝日新聞社、 1981〜85年
立花 隆 「論駁 ロッキード裁判批判を斬る」全3巻、 朝日新聞社、1985-86年
奥山 俊宏「秘密解除 ロッキード事件」岩波書店、 2016年
真山 仁 「ロッキード」文藝春秋、2021年
春名 幹男「ロッキード疑獄」角川書店、2020年
石井 一 「冤罪 田中角栄とロッキード事件の真相」産経新聞出版、 2016年
宗像紀夫「特捜は『巨悪』を捕らえたか」ワック、 2019年
平野 貞夫「田中角栄を葬ったのは誰だ」K&Kプレス、2016年
NHK       「未解決事件」取材班「消えた21億円を追え」朝日新聞出版、2018年
A.C.コーチャン/村上吉男訳  「ロッキード売り込み作戦」朝日新聞社、1976年


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情報提供元:TBS NEWS DIG Powered by JNN

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