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村山元総理「自民党に乗せられたことは否定しない」~引退後、地元記者に明かした内幕と心境~【調査情報デジタル】

国内
2025-10-25 07:30

先日101歳で亡くなった村山富市元総理。1994年、自民党から突然思わぬ人物がやってきたことなど総理就任に至るいきさつや、自衛隊容認、戦後50年の「村山談話」などについて、政界引退後に地元記者のインタビューに赤裸々に語っていた。元大分放送報道部記者でジャーナリストの田中圭太郎氏が取材メモを掘り起こした。


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「めぐりあわせの人生」

「国会議員をやったのも、党の委員長をやったのも、みんな自分の意思じゃないんですよ。そういうめぐりあわせでね、背中を押されてなった。そして委員長を1年もやらんうちにね、今度は総理大臣をやってくれって言うんですよ。『どこの国の話か、そりゃ』と言ったくらいですよ」


思いもかけず総理になったことを「めぐりあわせの人生」と表現していたのは、10月17日に老衰のため101歳で亡くなった村山富市元総理。


社会党委員長だった1994年6月、70歳の時に自民党と新党さきがけに担がれて内閣総理大臣に就任。1996年1月まで総理を務め、在任期間は561日だった。


冒頭の発言は2009年10月、福岡県北九州市で講演した際のものだ。2000年に政界を引退した村山元総理は、1995年8月15日に発表した戦後50年談話、いわゆる「村山談話」について国内外で精力的な講演活動をしていた。


大分放送報道部で勤務していた筆者は、2009年から2010年にかけて、地元大分市で暮らす村山元総理の活動に密着取材を行った。当時TBSテレビで深夜に放送されていた「報道の魂」やJNN九州・沖縄7局ネットの「ムーブ」、それに大分放送でドキュメンタリー番組を制作し、放送した。


政界引退後の村山元総理に何度もインタビューするなかで、総理就任から退陣までに起きたことの裏側を、本人の口から直接聞いていた。政界引退から10年が経った頃で、政治の生々しい話もあれば、後悔を口にすることもあった。


村山元総理の訃報に接し、当時の取材メモを読み直すと、番組では使っていない発言も多く残っていた。その中から、55年体制の下で対立し、「水と油」だった自民党と社会党が手を組んでの総理就任の内幕や、自衛隊合憲と日米安保を認めた政策転換、それに「村山談話」発表の経緯など、村山元総理自身が率直に語った「秘話」を掘り起こしてみた。


「自民党に乗せられたことは否定しない」

総理に就任する際、自民党議員らと水面下でどのような動きがあったのかについて、改めてじっくり聞いたのは2010年1月。場所は大分市内の村山元総理の自宅だった。「事前には何も聞いていなかった」と、当時のことを振り返った。


「その時は『自民党とさきがけと社会党で組んで、政権を3党連立でつくろうやねぇか』というような話をしていたのではないかと思うね。僕は当時、党の委員長だから直接声はかからんわね。でも、そんな動きがあることは僕もうすうす知っとった。

こっちもあんまりちょっかい出してもよくないから、知らん顔して見とったんだけど、だんだん話が詰まっていくにつれて、総理を誰にするかという話になって、自民党が『この際社会党から出してほしい、村山委員長でいいやないか』と言うたんじゃないかと思うな。本当かわからんで。聞いてねぇからな」


1994年6月、政局は混乱していた。前年に自民党からの政権交代を果たした非自民の細川連立政権はわずか8か月で総辞職し、後を継いだ羽田政権は連立与党第1党だった社会党が離脱したことで少数与党となり頓挫する。その混乱の中で、自民党と社会党、それに新党さきがけの3党での連立政権構想が進んでいた。


まさか自分が総理になるとは思っていなかったが、社会党の仲間から何も聞いていないうちから自民党の議員たちが次々とやってきて、総理就任を要請してきた。しかも、最初にやってきたのは意外にもタカ派の議員たちだった。


「最初に来たのが石原慎太郎と中尾栄一。二人が僕の部屋に来て『総理をやってくれ』と言う。『とんでもねえ、あんた方から言われたから<ああ、そうですか>なんて言うわけにはいかん』。(二人は)『話だけ聞いてくれ』って言うけども、『聞く必要はない』と言って聞かなかった。

そうしたら今度はさきがけから話があった。『どうしても社会党からじゃないと困る』と言うので、『社会党の中から誰を出すか話をしてもいいけど、僕はだめですよ』と言った。それから自民党の河野(洋平)総裁と森(喜朗)幹事長が会いたいと言ってきたので、『いや、今、反自民の政権をどうつくるのかの相談をしてるのに、一方であんたらと会うと誤解されるから、道義に反するから良くない』と断った。

いろいろ動きがあった中で、僕は最後まで断り続けた。それでうちの党内は、右(右派)の若い連中が夜、僕の宿舎に来て『なぜ受けないんだ、せっかくの機会だからいいじゃないですか』と要請してくる。『そりゃあとんでもない』って言って断り続けたんだけどね。結局は話がないままに推移したわけだ」


政権に復帰したい自民党は、なりふり構わず村山総理擁立を進めて党内をまとめていった。ただ、当の本人は、自分が総理になるとは思っていなかった。首班指名選挙で決選投票になり、小沢一郎氏率いる連立与党側が擁立した海部俊樹氏(自民党を離党)を破る。


腹をくくったのは、総理就任が決まった瞬間だったと話す。


「本会議で投票されて決まったら、しょうがないもんね、これ。『しょうがないなぁ』と腹を決めた」


同時に、自民党の政権復帰に加担したことも認識していた。 


「(自民党は)何とかして政権に復帰したいという願望が強かったと思うね。それもあって、政権に復帰するためには、どういう道があるかと考えたんじゃないかな。僕はそれに乗せられたと言えば、否定しないわ。否定しない」


自衛隊の「合憲」と日米安保を認めるも、社会党は衰退へ

総理に就任すると、所信表明演説でそれまでの社会党の方針を転換する。党の中で合憲か違憲かの議論があった自衛隊の存在を「合憲」と認めた。それは政権を担うことの責任からだったと明かしていた。


「最初に石原(信雄)官房副長官から話があった。『総理、これだけは、後が困ると思いますから』と。やっぱり総理は三権の長だから、それが自衛隊は違憲だと言うたんじゃ、これはつまらん(「だめだ」の意の大分弁)わね。『僕も考えているから、あまり心配せんでいいから』と言うたんだけどね。

国民全体が、この程度の歯止めがかかった自衛隊ならあってもいいじゃないかと、肯定している部分が80%くらいある。だからその範囲をしっかり守るということを前提にして、憲法9条は守る。自衛隊を認めるかわりに、海外に自衛隊が行くことについては許さない。集団的自衛権は違憲だから、それには足を踏み込まないと言うような枠をちゃんとはめた上で、自衛隊を認めることにしたわけじゃ」


また、社会党が反対していた日米安全保障条約についても、堅持することを表明した。


「安保条約があってアメリカの軍隊が日本にあるということは、瓶の蓋だな。上から抑えられているから、日本が独自で軍事大国になる道は塞がれているということで安心している面もある。もう一つは、あの廃墟の中から立ち上がるために、防衛費にあまり金を使わずに経済の再建に力を尽くしてきたことで今日の日本があるということからすればね、安保条約の功の面もあるわけ。

罪の面があるとすれば、講和条約を結んで独立国になっておるのに、アメリカの軍隊がこれだけ日本に駐留しているということについては、やっぱり重荷になっている面はあるわね。だから、安保条約には功罪がある。

外交というのはこれまでの経過があって約束事なんだから、政権が代わったからそれをすぐ破棄するなんてことは出来ない。だけども、一応受け入れた上で、機会あるごとに悪い点は改善していく努力をすることは必要なことだと特に最近思うんだけどね」


一方で、やや寂しげな表情で語ったのは、社会党が衰退した責任について質問した時だった。政策転換に対して1995年7月の参議院選挙では厳しい審判が下り、社会党は大敗する。総理退陣直後の1996年1月に社会民主党と姿を変えると、同年9月に結成された民主党に多くの議員が流れ、同年10月の衆議院選挙でも惨敗した。


「やっぱり政権を担うことになればね、その程度の幅を持った政党に成長していかないとね、政権なんか取れないということもあって、まあいい機会かもしれんということで、僕は認めることにしたんだ。

ただ残念なのはね、党大会なり党の機関でね、十分議論を尽くして、その上で結論を出して、その結論を僕が受けてやったというふうにすれば、まあ党も納得するし、大衆も納得するわけじゃ。ある意味ではね。ただ、それが出来なくてね、僕が総理大臣になったために変えたというような経過になっておるから、そこはもう残念でしょうがないけどね。

さきがけが分裂して、どうしようかと言いよるうちに、うちの中も割れてだね、右の連中は民主党に行った。そりゃあもう『バスに乗るのを乗り遅れるな』というぐらいの雰囲気だったからね。労働組合もみんな向こうに行ってしまうしな。だけどやっぱりなあ、それは悲壮だったね」


戦後50年の節目にけじめをつける「村山談話」

在任中には阪神・淡路大震災や、地下鉄サリン事件の対応にあたるなど、多くの政治的課題と向き合った。その中で執念を燃やしたのが、戦後50年のけじめをつけることだった。


「もともと政権を担う決意をした時ね、この内閣の使命というのは、ちょうど戦後50年の節目に担当した内閣だから、戦後50年の節目にけじめをつける。内外に解決しなければならない問題で未解決の問題があれば、そういう問題の処理にもあたる。被爆者援護法とか、水俣病の問題とか、あるいは地方分権の問題のかたをつけて、対外的にはやっぱり、アジアの国との関係でものを考えた場合、まだ戦争の後始末がついていない面がある。

もう一つはやっぱり歴史の問題でね、認識の違いがある。そういうものがあるから。今みたいに不信が一掃できないからね。アジアに対して信頼関係をしっかり築いていく必要がある。そんなことをずっと考えてきて、政権を担うときに3党連立政権の中で申し合わせをしているわけですよ。戦後50年の戦争の反省をして、平和を志向する方針を国会決議であげるというようなことも決めていましたからね」


しかし、国会決議では日本の侵略行為や植民地支配を明示することをめぐり、自民党が割れた。可決はされたものの欠席者多数での決議となったことで、談話の作成を決意した。


「あのまま済んだんじゃ、これは意味がないから、内閣としての方針を出そうと。総理が決断したらできることだから、それをやろうということで取りかかったわけだね。それぞれの関係者に集まってもらって、議論してもらって、熟慮して談話の文案を作ったわけだ。村山個人の談話なら、それほどの重みがないからね。しかし、閣議にかけて満場一致で決めて出した談話だから、重みがありますよね」


このような過程を経て1995年8月15日、村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」が発表された。


「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」


国内外で語り続けていた「村山談話」

村山談話はその後の歴代の内閣でも引き継がれてきた。談話を出したことの意義を、次のように語っていた。


「ある程度歴史に対する認識というものを内外に明らかにする必要があるというのが大きなポイントでね。極端に言ったら、日本の総理が信頼されるか、されんかっていうのはね、あの談話を認めるか認めんかということで決まるというくらいの意味を持っている。だからこれは否定できんわけだ。

村山談話というものをどう評価するか、と聞かれることがある。そういう時はね、後世の歴史家がね、どういう判断をするか、してくれるか。それは待つ以外にはないんでね。私は間違ったことはしていないと思うんだけども、あれは間違っとったと言う人もおるわけだから、歴史の評価を待つ以外にないと僕はそう思っている」


政界引退後、村山元総理は談話に込めた思いを説明するため、国内外で精力的に講演していた。ただ、質疑応答などでは、特に若い世代の人たちから批判的な質問を受けることも少なくなかった。


2010年1月、大分県別府市の立命館アジア太平洋大学で村山談話をテーマにした討論会が開催された。日本人と留学生が半数ずつ在籍する大学で、日本の戦争や村山談話のことを知らない学生から、遠慮のない意見が飛び交った。


「中国と仲良くした総理大臣で、日本をダメにしたとテレビ番組で見ました」


「中国や韓国で行われている反日教育は、やはり日本人としては納得できないナショナリズムの部分がどうしても出てきます」


村山元総理は、質問にひとつひとつ答えながら、若者たちに丁寧に語りかけていた。


「過去の歴史に対する誤解があるとか、解釈が違うとか、理解ができていないとか言うことは、やっぱり対立の原因になりますよね。

そりゃあナショナリズムっていうのは、否定しようったって否定しえないものがあるわけですけども、そのナショナリズムのものの考え方っていうのが、普遍的なものの考え方に立つことが必要だと思いますのでね。

まあしかし、日本の国民の大部分はね、やっぱり良識を持って、誤りは謝る。間違いは間違いということをきちっと踏まえてね、そしてお互いの信頼関係を作っていく必要があると、こういうことではないかと思うんですよね」


保守勢力が「憲法改正」で手を握る~不安定な民主党政権に懸念~ 

密着取材を始めた2009年は、民主党が政権交代を果たした年でもあった。民主党政権誕生の瞬間は、村山元総理の自宅でインタビューをしながらテレビを見ていた。翌年にかけて自宅で何度もインタビューをする際にも、国会中継を見ながら話を聞くことが多かった。


印象に残っているのは、2010年の通常国会の会期中だった。国会中継を見ながら話を聞いていると、なかなか安定しない民主党の政権運営に対して、そう遠くない未来への懸念を口にした。


「僕はねえ、今一番心配しているのは、政局が安定すればいいんですよ。今の民主党政権で安定すればね。今のような状態だと安定しないわね。そうすると、政界再編が起こってくるんですよ。

安定政権をつくっていくためには、ある程度かたまった力を持った党でつくる必要がある。その時に、保守がもういっぺん手を握って、連合しようじゃないかという動きが起こらんとも限らんよね。そういう問題が起こった時、保守の政権の基調は憲法改正だと僕は思うな。

僕も日米関係が大事だっていうのは否定しませんよ。(村山談話は)現状の日本を肯定した上で、世界に向かって、アジアに向かってあの宣言を出すということだからね。アジアから孤立した日本なんて、ただの島にしかすぎんのやから。日本が軍事大国になるとかね、また戦争するとかね、そんなことは一切認めないという談話だからね。問題は、歴史認識ですよ」


村山元総理は、いつでも自らの言葉で語っていた。取材メモに残っている言葉の数々は、今でも重い意味を持っている。


<執筆者略歴>
田中 圭太郎(たなか・けいたろう)
ジャーナリスト・ライター


1973年生まれ。大分市出身。
大分放送で19年の勤務を経て、2016年からフリーランスで活動。
休刊した「調査情報」で執筆し、「調査情報デジタル」では
<シリーズ SDGsの実践者たち>などをライターとして担当。
ジャーナリストとして、雑誌・WEBに大学をめぐる問題、教育、社会問題など幅広いジャンルで執筆している。
著書に『パラリンピックと日本 知られざる60年史』(集英社)『ルポ 大学崩壊』(筑摩書房)がある。


【調査情報デジタル】
1958年創刊のTBSの情報誌「調査情報」を引き継いだデジタル版のWebマガジン(TBSメディア総研発行)。テレビ、メディア等に関する多彩な論考と情報を掲載。原則、毎週土曜日午前中に2本程度の記事を公開・配信している。


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