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【戦後80年】「ただ御国の為に」叔父はなぜ虐殺を…親族の葛藤「加害の歴史を伝えていかなければ」マレーシアで起きた日本軍による“華僑粛清”

海外
2025-09-20 21:00

太平洋戦争中、旧日本軍が占領したマレー半島で、人々の記憶に深く刻まれているのが「華僑の粛清」。虐殺を指揮した日本兵の親族と、殺害された華僑の遺族、それぞれの思いを取材しました。日本による戦争加害の歴史です。


軍国少年だった叔父 侵攻したマレー半島で何が

80年以上前の戦争加害と向き合い続ける男性がいます。

広島県廿日市市に住む橋本和正さん(74)。


橋本和正さん
「叔父のよく写っている写真です」
「軍服姿の本人の写真ですね」

叔父の橋本忠さんは、広島で結成された旧陸軍第5師団歩兵第11連隊第7中隊に所属していた少尉でした。


忠さんの甥・橋本和正さん
「(幼少期は)軍隊ごっこをしながら一本気なところというのかな。無鉄砲なところがあったという風には聞いています。軍隊にも憧れたりしたんだとは思うし、いわゆる当時の“お国のために”という意識が強くなっていったんじゃないか」


忠さんは戦後、マレーシアでBC級戦犯裁判にかけられ、28歳で処刑されました。

現地で何があったのでしょうか。


太平洋戦争が始まった1941年、旧日本軍は、中国との戦況が泥沼化するなか、アメリカ・イギリスとの全面戦争に突入しました。

石油やゴムなどの資源を確保するため、当時イギリス領だったマレー半島に侵攻。わずか2か月でシンガポールを攻略しました。

その後、マレー半島各地で、中国本土への経済援助を続けていた「華僑」と呼ばれる中国系住民を敵視した大規模な粛清が始まったのです。

犠牲者はマレーシアで5万人以上とされています。

忠さんは「マレー作戦」の主力部隊として現地に駐屯し、華僑虐殺を指揮したひとりでした。


忠さんの甥・橋本和正さん
「日本軍の残虐性、非人道性があらわれているなと思いましたね」


マレーシアの首都クアラルンプール近郊のネグリセンビラン州には、日本軍による華僑虐殺の傷跡が確かに残っていました。


記者
「中国系住民が埋葬されている墓地の中に慰霊碑がたっています」
「欠けているところがあって一部文字が見えませんが『橋本少尉』という部隊長が来たと記されています」


忠さんが虐殺に関与したスンガイルイ村。

鉄道の駅の周りには住宅地が広がり、タバコの生産などが盛んだったそうです。


遺書には「破廉恥行為で無い」叔父の“戦争加害”知り葛藤

1942年8月。

この村に忠さんの部隊がやってきました。

戦犯裁判記録などによると、忠さんの部隊は銃剣や機関銃で女性や子どもを含む約350人を殺害し、家々に火をつけて村の一帯を焼き払ったとされています。


記者 
「当時この村には400人ほどが暮らしていたそうですが、今はアブラヤシに囲まれたジャングルになっていて面影はほとんど残っていません。こちらにある駅舎の一部が、唯一残っている建物だということです」


村から人は消え、今は廃墟と化した駅舎だけが残っています。

広島に住む和正さんは、忠さんが処刑された理由について家族から何も聞かされていませんでした。

ところが20年ほど前、戦争犯罪について書かれた書籍で偶然、叔父の名前を見つけたことがきっかけで、戦争裁判の記録を取り寄せました。


忠さんの甥・橋本和正さん
「(書籍の)中に「橋本少尉」という名前が出てきてびっくりしたというか、心臓が飛び出すくらい驚いて。(虐殺現場に)ともに連れて行ったインド系の警察官が『これらの人たち(華僑)に疑いをかけるとしても取り調べをしたうえで裁判にかけてでないと処刑とかそういうことはできませんよ』と言ったと。だけど橋本(忠)が『自分が責任を持つ。責任をとるから』と。裁判記録に残っているものでさえ、(家族や)周りの人は教えてくれなかった」


BC級戦犯として処刑される前日、忠さんは遺書にこう綴っていました。  

忠さんの遺書
「只(ただ)私は御国の為(ため)に取った行動です
そして此の事件の為に責任を問われて此んな判決を受けたのです」
「どうか父母兄弟親族の旁々に破廉恥行為で無い事は御理解出来ていただく事と存じます」


橋本和正さん
「弟に向けて『意に添わぬことは絶対にするな』というようなことも書いています。もしかしたら一連のマレー半島で犯した中国系住民の大虐殺というかそういう粛清作戦そのものに対して自分の意に添わぬ行為を繰り返し繰り返しさせられたんだな、というような印象もそのときに思いましたね」
「(周囲から)『叔父さんも戦争の被害者だったんだよね』と言われてると正直ほっとする気持ちはありました。『同じ戦争の犠牲者だったんですよね』と言われるとほっとはするけれども。でもやっぱりそれで良いのだろうかと思っていますしこの事実を伝えていく大切さがあると思います」


90歳の生存者 忘れられない“母の言葉”

マレーシアの別の村ぺダスには、虐殺事件の生存者もいました。

鄭来さん(90)。

日本兵に刺された銃剣が背中から胸にかけて貫通した傷がいまも残っています。


虐殺事件の生存者 鄭来さん(90)
「(日本兵は)住民を数人の小さなグループに分けて連行し殺害を始めました」


当時6歳だった鄭来さんは、家族やほかの住民らとともにゴム農園に連れて行かれ、日本兵から一列ずつ並んで跪くよう指示されました。そして、銃剣で次々と刺されたのです。

鄭来さんの目の前で家族5人が殺されました。かろうじて意識が残っていた鄭来さんは血だらけになった弟を連れて森の中を逃げ回り、一命を取り留めました。

「お前は生まれてくる時代を間違えたのかもしれないね」

母親が亡くなる前につぶやいた言葉が今でも忘れられないといいます。


虐殺事件の生存者 鄭来さん(90)
「何の罪もないのに家族が殺されました。(日本兵は)人間の感情なんてなかった。どうしたらこんなにひどいことができるのですか」


橋本和正さんは、これまで2度マレーシアの虐殺現場などを訪問し、現地の住民たちとの対話を重ねてきました。

スンガイルイ村で和正さんの訪問に立ち会った華僑の林栄源さんは「失われた命は二度と戻らない」としたうえでこう話します。


親族が日本軍に殺害された林栄源さん
「(日本人に対する)憎しみというのはありません。ただ私が言いたいことは二度と戦争を繰り返してはならないということです」


戦後80年を迎えた今、和正さんは日本の“加害の歴史”から目を背けず、決して忘れてはならないとの決意を新たにしています。


橋本和正さん
「(加害の)歴史を伝えていかなければ(戦争の)本当のことが伝わっていかない。再び戦争を繰り返すことになってはいかんという思いで事実をきちんと学んで伝えていきたい。“私の戦争責任”として感じるのは、今後絶対日本が戦争を起こさない、そのための活動というのを続けていきたいと思っています」


取材:JNNバンコク支局 村橋佑一郎
撮影:JNNバンコク支局 倉上僚太郎


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