
世界最高峰の映画の祭典として知られる「カンヌ国際映画祭」。2026年に開催された同映画祭において、特定の1カ国を重点的に取り上げる特別プログラム「カントリー・オブ・オナー(Country of Honor)」に日本が初めて選出されました。現地に代表参加者として赴き、取材を行ってきたエンタメ社会学者の中山淳雄さんに、現地での熱気や日本が選出されたことの意義、カンヌが持つ独自のメディア・ヒエラルキーや「アート映画」の評価基準について解説していただきました。
東京ビジネスハブ
TBSラジオが制作する経済情報Podcast。注目すべきビジネストピックをナビゲーターの野村高文と、週替わりのプレゼンターが語り合います。今回は2026年7月12日の配信「カンヌ国際映画祭。今年は日本が「Country of Honor」に。その意味とは?(中山淳雄) 」 を抜粋してお届けします。
日本が「Country of Honor」に選ばれた今年のカンヌ国際映画祭
野村: 世界最高峰の映画の祭典の一つとされるカンヌ国際映画祭で、中山さんは代表参加者として実際に現地に行かれたのですよね。今年の日本のカンヌ国際映画祭の結果はどうでしたか。
中山: まず特定の1カ国を重点的に取り上げる特別プログラム「カントリー・オブ・オナー」に、今年は日本が選ばれたことが大きな出来事でした。これは日本にとって初めてのことです。最初のオフィシャルパーティーを日本が主催したり、会場の各所に「COH(カントリー・オブ・オナー)ジャパン」のフラッグが掲げられたりと、いたる所で日本がフィーチャーされていました。世界中の映画人が日本とつながろうとするため、露出を高める絶好のチャンスとなりましたね。
野村: 素晴らしいですね。作品の選出状況はいかがだったのでしょうか。
中山: パルムドールを競うコンペティション部門の20作品の中に、日本から過去最多となる3作品が選出されました。全世界から寄せられた8,000近くの応募作から選ばれたトップ20のうち、日本が約1.5割を占めたことになります。会場の様々な場所で「日本」という言葉を耳にし、体感としてはそれ以上の存在感がある特別なタイミングでした。そのため、日本からの参加者も去年の1.5倍から2倍近くに増え、国別の参加者数では世界で5番目に多かったと言われています。
野村: 毎年開催される権威ある映画祭ですが、その中でも今年は特に日本がフィーチャーされていたということですね。
中山: カントリー・オブ・オナーへの選出は去年から決まっていたため、日本の映画関係者たちは総出で知恵を絞り、1年越しで入念な調整を重ねていました。メインの基調講演には、映画配給会社のギャガ(GAGA)出身で、Netflixの実写版『ONE PIECE』のエグゼクティブプロデューサーも務めた藤村哲哉さんが登壇され、「今なぜ、これほど日本が注目されているのか」について語られました。その講演の後に、私がソニー・ピクチャーズの社長であるサンフォード・パニッチさんと対談するプログラムが用意されていました。
ソニー・ピクチャーズ社長との対談の舞台裏と「クランチロール」の急成長
野村: 対談はどのように進んだのでしょうか。
中山: 実は内容は完全に一任されており、「1時間話してほしい」とだけ言われていました。私はゲームやアニメの分野には詳しいのですが、実写映画は専門領域ではなく、しかも全編英語での対談でした。さらに、ハリウッドのトップレベルになると事前の打ち合わせが直前にキャンセルになることも珍しくありません。時差の関係で夜中の12時に待機していたものの、開始10分前になって「急用でキャンセルになった」と連絡が入るような状況で、まさにぶっつけ本番のプレッシャーがありました。
野村: それは非常に緊迫した舞台裏ですね。
中山: ハリウッドにおけるサンフォード・パニッチ氏の発言は業界全体から非常に注目されています。対談の場では、最前列に記者たちがずらりと並んでいました。「Netflixをどう見ているのか」「ソニーにとって今の挑戦は何か」といった発言をすべて記事にしようと身構えており、彼としても慎重に発言を選ぶ必要がありました。その中で、彼が特に強調していたのはクランチロール(Crunchyroll)の存在です。
野村: クランチロールですか。
中山: ソニーグループは、主要な映画スタジオの中で唯一、総合的な動画配信プラットフォームを自社で展開していませんでした。他社が「Disney+」や「HBO Max」を立ち上げる中、ソニーは特定のプラットフォームに縛られず、各社と広くパートナーシップを結ぶ戦略をとっていました。しかし、ソニーが買収したアニメ特化型配信プラットフォームのクランチロールは、2020年の買収検討時には有料会員数が約300万人だったものが、先々月の発表では2,100万人にまで急成長しています。
野村: 約7倍に跳ね上がったのですね。
中山: 「すべては熱狂的なファンダム(ファンコミュニティ)から始まる」というアプローチで着実にファンを積み上げてきた結果です。ソニー・ピクチャーズにとっても、クランチロールを通じて日本のアニメを世界に届けることが大きな柱になっていると強く実感しました。また、非常に印象的だったのは、彼が「動画配信プラットフォームからは、持続的なIP(知的財産)は生まれにくい」と言い切ったことです。
その発言をジャーナリストたちが一斉に記事にしました。映画業界のトップが語る「映画館での体験が極めて重要である」という共通認識を引き出せたことは、非常に大きな意味があったと感じています。
カンヌが守り続ける「ヨーロッパ」と「ハリウッド」の境界線
野村: 配信と劇場公開のジレンマは、現在の映画業界における最大のテーマですね。
中山: パニッチさんとの対談では、例えばツインエンジンのアニメーション映画『超かぐや姫!』をめぐる「配信で300万人が視聴した後に、劇場に100万人が足を運ぶような波及効果もあり得るのではないか」という問いかけに対しても、前向きな議論ができました。実際、Netflixの共同CEOであるグレッグ・ピーターズ氏とも対談する機会があったのですが、彼も既存の映画業界や劇場公開の仕組みを活用することに肯定的な様子でした。
野村: 配信プラットフォーム側も、劇場の力を無視しているわけではないのですね。
中山: ただ、カンヌ映画祭という場は、伝統的に「フランス(欧州のアート映画)対アメリカ(ハリウッド・配信)」という非常に強い対立構造をはらんでいます。カンヌにはハリウッドの大手スタジオやアメリカ勢の存在感が薄く、彼らが配信の力で世界市場を席巻しようとするのに対し、フランス側は「我々はあくまでアート映画である」という姿勢を崩しません。上映作品の冒頭でNetflixのロゴが出たときだけは、観客から拍手が起きないという露骨な対抗意識があるほどです。
野村: 非常に分かりやすい、徹底した姿勢ですね。
中山: これほどの強い対抗意識には驚かされました。過去にはハリウッド大作がカンヌでお披露目上映された際、厳しい評価を受けてその後の興行成績に悪影響を及ぼしたという経緯もあります。そのため今回は、ディズニーやパラマウントなどの大手スタジオは参加しておらず、ユニバーサル・ピクチャーズの関係者が数人訪れていた程度で、広告も一切出していませんでした。
野村: まさに、商業的なアメリカ映画と、芸術性を重んじるヨーロッパ映画で、全く異なるエコシステムが形成されているのですね。
中山: その通りです。日本はハリウッドに対して依存しがちですが、フランスのように独自のこだわりを持ち、強い交渉力で自国の文化を守る姿勢は、日本も見習うべきだと感じました。
「カントリー・オブ・オナー」に選ばれた背景と、ベンチャーを引き上げる文化の力
野村: それでは、今回のメインテーマである「カントリー・オブ・オナー」についてですが、なぜ今年、日本が選出されたのでしょうか。
中山: 実は3年前にも打診があったそうです。しかし当時の日本には、現在のような「オールジャパン」でコンテンツを海外へ押し出す機運や、ジェトロ(日本貿易振興機構)などによる海外展開支援の体制が十分ではありませんでした。今回は、経済産業省が推進する「IP360」といったコンテンツの海外展開支援の枠組みが整っていたこともあり、「今年は勝負をかける」という決断に至りました。
野村: 満を持しての選出だったのですね。
中山: 今回、日本が主催した招待制のオープニングディナーには約1,000人ものゲストが詰めかけ、イベント全体の規模も去年の3倍近くに拡大していました。また、作品の面でも、コンペティション部門以外を含めて合計10本の日本関連作品がノミネートされました。ストップモーション時代劇アニメの『HIDARI』や、設立4年目のベンチャー企業「NOTHING NEW」が手掛けた『我々は宇宙人』など、多様な作品が世界的な注目を集めました。
野村: 設立わずか4年の、しかも4人ほどのベンチャー企業がカンヌの「監督週間」部門に選ばれたというのは驚きです。
中山: カンヌには、新興のプレイヤーやベンチャーをグローバルに一気に引き上げる力があります。彼らは選出された途端に世界中のメディアから取材攻勢を受け、「午前中だけで15社の商談が入っています」と多忙を極めていました。一気にグローバルステージに躍り出たわけです。
野村: まさに世界への登竜門であり、ジャイアントキリングが可能な場所なのですね。
中山: 是枝裕和監督がこれほど世界的な名声を得ているのも、2018年に『万引き家族』でパルムドールを受賞した実績が極めて大きいです。地方や一国のプレイヤーが急激にグローバルな存在になるための手段は、「圧倒的な資金力」か「文化の持つ力」のいずれかしかありません。文化の力によって、莫大な資金力に対抗し、それを超えることができる。その可能性を信じる人々が、野心を持って集まる熱い場所でした。
カンヌ独自の厳格なメディア・ヒエラルキーと「星」による評価システム
中山: カンヌには世界中から4,500社ものメディアが取材に訪れるのですが、そこには厳格なヒエラルキー設計が存在します。まず、現地のホテルに毎日無料で配られる『Gala』という雑誌には、コンペティション部門の20作品に対して、12人の著名な批評家たちがそれぞれどのようなスコア(星)をつけたかがリアルタイムで一覧できるようになっています。
これを確認しながら、「この作品は評価が高いな」といった予測を立てるのですが、今回は濱口竜介監督の『急に具合が悪くなる』が3.1という高得点をマークしており、非常に盛り上がっていました。その一方で、取材に訪れるメディア自体も厳格に5つのランクに分けられています。
野村: メディアにもランク分けがあるのですか。
中山: トップの第1ランクには、歴史ある専門誌や毎日新聞などの伝統的な大手新聞社が位置づけられており、セキュリティやアクセスの制限において最優先されます。新興のウェブメディアなどは一番下の第5ランクに位置づけられ、上位のアワード取材などには立ち入れません。安易にすべての人を受け入れるのではなく、厳格にコントロールすることで、映画文化の頂点としての格調を保っているのです。
野村: まさにLVMHのブランド戦略やルーヴル美術館と同じで、徹底した差別化と階層化(ヒエラルキー)によって強固なブランドを構築しているのですね。
商業主義に対抗する「作家性」の絶対基準とゲームチェンジャーの存在
野村: 映画がカンヌのような芸術の場で評価される際、どのような具体的な基準があるのでしょうか。
中山: 映画の芸術性を測定する絶対的な指標はありませんが、まさに「美術史における文脈(コンテクスト)」と同じです。ポピュラリティを追求するアメリカの商業映画に対抗し、独自の文化的、歴史的な価値を提示できるかどうかが問われます。12人の批評家たちは、映画史の文脈に照らし合わせて「これからの映画界はこの方向性を評価すべきだ」という意思表示や、価値観の再定義を能動的に行っています。
野村: だからこそ、全員が納得する無難な作品よりも、賛否両論を巻き起こすような尖った作品が評価されるのですね。
中山: その通りです。摩擦や議論を生まないゲームチェンジャーは存在しません。商業性とは完全に切り離された「作家性」を絶対基準とする独自のエコシステムがあるからこそ、非常にユニークでエポックメイキングな作品が世に送り出されます。今回女優賞(岡本多緒さんとヴィルジニー・エフィラさんの共同受賞)受賞を果たした濱口監督の『急に具合が悪くなる』もその好例です。上映時間は3時間に及び、学者同士の往復書簡を通じて、静かに死に至るまでの過程を描いた非常に深い内容です。
野村: 私はその原作を読んだことがあるのですが、あの極めて内省的なテキストをどのように映像作品に落とし込むのだろうかと驚きました。前作の『ドライブ・マイ・カー』もそうでしたが、非常にハードルの高い挑戦を常に行われていますね。
中山: 優れた芸術作品というのは、安易に言語化や一元的な解釈を拒み、「これは一体何だったのだろう」という心地よい問いが心に残ります。その体験そのものに大きな価値があるのだと思います。
カンヌが提示する新しい価値観と、日本コンテンツの未来
野村: カントリー・オブ・オナーに日本が選出された背景には、やはり日本に関連するカルチャー全体の盛り上がりもあったのでしょうか。
中山: そうですね。実写映画や、それに付随する文化的コンテンツへの関心も予想以上に高まっていました。例えばイギリスなどでも日本の現代小説が非常に高い人気を得ています。柚木麻子さんの『ナイルパーチの女子会』や『BUTTER』、吉田修一さんの『国宝』の映像化プロジェクトなども関心を集めていました。海外のカルチャーシーンで「日本」というキーワードが頻繁に語られる土壌ができていたことも、今回の強力な背景になっています。
野村: ゲームやアニメといった分野だけでなく、小説や実写映画といった多面的な表現領域においても、日本発の強力なストーリーが評価されているのですね。
<聞き手・野村高文>
Podcastプロデューサー・編集者。PHP研究所、ボストン・コンサルティング・グループ、NewsPicksを経て独立し、現在はPodcast Studio Chronicle代表。毎週月曜日の朝6時に配信しているTBS Podcast「東京ビジネスハブ」のパーソナリティを務める。
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