国内
2025-10-28 08:00
6歳で“自分は男だ”と感じ、制服のスカートなど性別による強制的な分類や選択に苦しみ、自ら命を絶とうとした過去を持つ、SHOW-1さん。自身の経験から「自分自身を愛してあげてほしい」とSNSや講演活動で発信している。今を生きる支えとなっているのは、厳しかった父親に思い切って打ち明けたときにもらった温かくも前向きな言葉だという。性別の違和感や社会の偏見と向き合いながら、いかに自分自身を生きる強さを手に入れたのか話を聞いた。
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■違和感を自覚し、命を落とす寸前にまで向き合わされた“自分らしさ”を出せない苦痛
――6歳の頃に「自分は男だ」という感覚を持たれていたそうですが、覚えている範囲で、そう自覚するにいたった出来事やエピソードがあれば教えて下さい。
「これが、まったくないんです。よく聞かれるんですけど、逆に「みんなはどうやって自覚したの?」って聞くんですよ。多分、男とか女とかあまり考えずに生きていると思うし、6歳だし、特別なきっかけはなくて。普通に女だと思ったことは一度もなく、自然と男だと思っていました」
――周囲の反応で違和感を覚えたりしたことは?
「好みで言うとウルトラマンやミニ四駆が好きでしたが、周りの大人から渡されるのは“女の子っぽいもの”ばかりで全然好みじゃなくて。「あなたは女の子だから」と言われても「え?女の子?」って感じでした。お母さんはフリフリやリボンを着せたがって。でも悲しませたくなくて「じゃあ着るかー」って感じで。遊ぶ時だけは自分の好きなものを選んでいました」
――学校に通い出すと、より男女で分けられる機会は増えていくと思います。葛藤したことはありますか?
「そうですね。学校では男女で分けられることが多くて、全部“壁”に感じていました。授業もそうですし、小学生の活動でも女子はバドミントン、男子はバスケみたいに決まっていて、「僕はバスケがやりたいのに?」と思っても「女の子だからバドミントン」と言われたり。部活でも野球をやらせてもらえず、スポーツの男女分けにはずっと疑問を感じていました。
一番きつかったのは制服ですね。毎日のことだから特に辛くて、スカートを着るくらいなら「死んだ方がマシ」と思うほどでした。小6のときには制服を着たくなさすぎて「バイトする!」と母に言ったんです。「何言ってんの」と笑われましたけど、本気でそれくらい嫌でした」
――小学生ながらに違和感を持っていたのですね。
「小4の時に初恋をして、好きになったのは女の子でした。好きな人の話になった時に僕は嘘をつけないので、クラスのあの子が好きみたいな話をすると「えー! 何で女の子なのに女の子好きなの?」と驚かれて。 “好きな人の話ができない”、“好きな人・好きなものを好きと言えない”というように、“自分らしさを出す”ことができませんでした。
そして小学6年生の時には、制服ですごく悩みました。女子は制服がスカート。当時は選択制ではなかったので、それがあまりにキツくて。一度、飛び降り自殺をはかったこともありました。でも、飛び降りる直前にたまたま友だち見つかって叫び止められ、我に帰り飛び降りずに済みました。自分が気づかないところで悩みが深刻になっていましたね。これ以上男女分けされて、自分らしく生きれないなら自分なんか消えればいいのにと。毎日「死にたい」と願っていました」
――そのお友だちの登場は結構大きかったのでしょうか。
「その友だちが「最近元気なさそうだけど何かあったの?」って声をかけてくれて。その言葉に本当に助けられたました。“ちゃんと見てくれてる人がいるんだ”と思えたんです。普段一緒にいる子たちは気づかなかったのに、意外な子が気づいてくれて正直驚きました。声をかけてくれたおかげで「死ぬのだけはやめよう」と思えました」
■縁を切られる覚悟を決めて打ち明けた想い「親父には“男として”話したかった」
――お父さまが怖くて「なかなか打ち明けられなかった」とのことですが、19歳の時に思い切って伝えた際の背景や、感情などについて教えてください。
「実は18歳の頃にはすでに男性ホルモン注射を始めていて、声も低くなり、髭も生えて、髪も短く服装も完全にメンズでした。でも親父にはまだ言えてなくて、何も聞かれないから気づいてないのかなと思いつつ、言わないままはさすがに申し訳ないとずっと思っていました。“親には必ず言わなきゃいけないわけじゃない” “全ての悩みを言う相手ではない”とも思っていたけど、やっぱり親父には本当の僕を見てほしかったし、“男として”話したかった。だから、たとえ縁を切られてもいい覚悟で、19歳の時に思い切って伝えました」
――実際にご両親に打ち明けた時、どのような反応をされましたか?その時の気持ちも合わせて伺えたらと思います。
「怖すぎて本当に記憶がないんです。リビングに入った瞬間から泣いてたらしくて、後で母に言われました。親父は戸惑ってたけど、さすがにただ事じゃないとなって、1時間くらい頑張って声震わせながら泣きじゃくって伝えました。体も震えてたらしいです。性別を変えるという話をしたとき「そっか、まあ我が子には変わりないけどね」という一言目だったのが印象的でそこからは覚えています。「手術するだろうけど健康には気をつけろよ」と言ってくれて、「言ってよかったな」と心から思いました。僕が泣きじゃくってたからノーとは言えなかったのかもしれないけど、それでもちゃんと受け止めてくれたと感じました」
――お母様にもその時に伝えたんですか?
「母には高校2年の時に伝えました。すごく仲が良かったので、すぐわかってもらえるだろうと思って気楽に話したんです。登校中、車で送ってもらっている時に「将来性別を変える」と真剣に伝えたら、受け入れがたかった様子でした。僕は気づいていると思ったんですが、気づいていなかったみたいで。ただのボーイッシュな子だと思ってたみたいです。カミングアウトした後、母の方を見ると目に涙を浮かべていました。その後1ヵ月くらい会話がゼロになりました。どちらかというと、母の方が理解に時間がかかっていて、親父の方がすぐ受け入れてくれました 」
■男として生きる道を選ぶことで「安心感”が増えて、前向きになった」
――性別移行を経て、今は男性として生活されているとのことですが、気持ちの面で変化などがあれば教えてください。
「一番大きいのは“安心感”が増えたことです。以前は社会の中で男女に分けられることに毎日不安や恐怖を感じていて、ネガティブな気持ちが多かったんです。でもホルモン注射や手術を経て、見た目や声が変わっていく中で、社会になじんでいけるような安心感が生まれました。その“安心感”ができてから、性格や考え方も前向きになりました。
以前は自殺を考えるほど自分が嫌いで、自信もなくネガティブだったけど、今はかなりポジティブで明るくなったと思います。“安心できる環境”の大切さに気づきましたLGBTやジェンダーに限らず、バリアフリーや海外からの転校生などもそうだと思うけど、人が安心できる環境があるだけで性格はすごく変わると思います」
――現在はジェンダーに関して以前と比較すると寛容になってきているように感じますが、社会の変化に対してはどのような印象ですか。
「そうですね。僕は2013年頃から三重県でLGBTの講演会を続けてきて、パートナーシップ制度の整備や電話相談の運営など、地域の環境づくりにも関わってきました。活動を始めた頃は、LGBTという言葉すら知らない人がほとんどで、トランスジェンダーの理解も全然進んでいませんでした。でもここ数年で、LGBTやトランスジェンダー、クエスチョニングといった言葉を知る人が増えて、社会的にはかなり浸透したと感じます。
一方で、“知っている”だけで誤解している人もまだ多いです。メディアやネットの影響で誤解が広がっている部分もあるので、今は“知る段階”から“正しく理解する段階”に変わっていく時期だと思っています」
――性別移行のプロセスで特に大変だったことがあれば教えてください。
「移行期間は、周囲にどう説明しようかと悩み、いちいち説明しなければならない点が大変でした。FTM(Female to Male:身体的特徴は女性として生まれたが、男性として生きることを望む人や、男性の体へと移行を目指す人)の場合、ホルモンで声が低くなりヒゲが生え、骨格も変わるので、見た目がどんどん男性化し「どうしたの?」と詮索され、強制的にカミングアウトしなければならない流れになる傾向があるんです。自分は伝えたい人だけに話していて、言いふらす人には嫌な思いをしました。昔の職場で勝手に言いふらされた時は腹が立ちましたが、僕はそのまま働き続けました。こうした理由で移行期間に転職をする人も多いです」
――性別移行の過程や葛藤の中で、特に支えになった人や言葉はありましたか?
「親父の3つの言葉です。
「我が子には変わりない」ということ。そして手術だったりホルモン注射などをするにしても「健康には気をつけろよ」と言ってくれたこと。あとは「後悔なく生きてくれたら俺はそれで十分。お前の人生なんだから」という3つの言葉が宝物になっています。この3つの言葉はジェンダーに限らず人として、大事なことを真摯に伝えてくれたので、それが本当に大きかったです。「今までいろいろ我慢してきたろう。我慢してきた分、人様に迷惑かけないようにしながら、好きなことすればいい」とも話してくれて、これまでの自分も認めてくれたことが嬉しかったです」
――今もなお、自分自身の性別に違和感を抱いていたり、「自分らしく生きたい」と思いながらも葛藤している人たちがいます。そうした方々に向けて、何かメッセージがあれば、ぜひお願いします。
「まずは、“自分を責めない”ことから始めてほしいです。どんなに周りが理解してくれなくても、自分だけは自分の味方でいてほしい。時間がかかってもいいし、焦らなくていい。生きづらさを感じる日があっても、それは「ダメなこと」じゃないんです。少しずつ、自分の“好き”や“得意”を見つけていけばいいし、自分を否定するより自分を知ることにエネルギーを使ってほしいです。誰かの理想に合わせるんじゃなくて、「自分のペースで」生きていけたら、それで充分です」
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■違和感を自覚し、命を落とす寸前にまで向き合わされた“自分らしさ”を出せない苦痛
――6歳の頃に「自分は男だ」という感覚を持たれていたそうですが、覚えている範囲で、そう自覚するにいたった出来事やエピソードがあれば教えて下さい。
「これが、まったくないんです。よく聞かれるんですけど、逆に「みんなはどうやって自覚したの?」って聞くんですよ。多分、男とか女とかあまり考えずに生きていると思うし、6歳だし、特別なきっかけはなくて。普通に女だと思ったことは一度もなく、自然と男だと思っていました」
――周囲の反応で違和感を覚えたりしたことは?
「好みで言うとウルトラマンやミニ四駆が好きでしたが、周りの大人から渡されるのは“女の子っぽいもの”ばかりで全然好みじゃなくて。「あなたは女の子だから」と言われても「え?女の子?」って感じでした。お母さんはフリフリやリボンを着せたがって。でも悲しませたくなくて「じゃあ着るかー」って感じで。遊ぶ時だけは自分の好きなものを選んでいました」
――学校に通い出すと、より男女で分けられる機会は増えていくと思います。葛藤したことはありますか?
「そうですね。学校では男女で分けられることが多くて、全部“壁”に感じていました。授業もそうですし、小学生の活動でも女子はバドミントン、男子はバスケみたいに決まっていて、「僕はバスケがやりたいのに?」と思っても「女の子だからバドミントン」と言われたり。部活でも野球をやらせてもらえず、スポーツの男女分けにはずっと疑問を感じていました。
一番きつかったのは制服ですね。毎日のことだから特に辛くて、スカートを着るくらいなら「死んだ方がマシ」と思うほどでした。小6のときには制服を着たくなさすぎて「バイトする!」と母に言ったんです。「何言ってんの」と笑われましたけど、本気でそれくらい嫌でした」
――小学生ながらに違和感を持っていたのですね。
「小4の時に初恋をして、好きになったのは女の子でした。好きな人の話になった時に僕は嘘をつけないので、クラスのあの子が好きみたいな話をすると「えー! 何で女の子なのに女の子好きなの?」と驚かれて。 “好きな人の話ができない”、“好きな人・好きなものを好きと言えない”というように、“自分らしさを出す”ことができませんでした。
そして小学6年生の時には、制服ですごく悩みました。女子は制服がスカート。当時は選択制ではなかったので、それがあまりにキツくて。一度、飛び降り自殺をはかったこともありました。でも、飛び降りる直前にたまたま友だち見つかって叫び止められ、我に帰り飛び降りずに済みました。自分が気づかないところで悩みが深刻になっていましたね。これ以上男女分けされて、自分らしく生きれないなら自分なんか消えればいいのにと。毎日「死にたい」と願っていました」
――そのお友だちの登場は結構大きかったのでしょうか。
「その友だちが「最近元気なさそうだけど何かあったの?」って声をかけてくれて。その言葉に本当に助けられたました。“ちゃんと見てくれてる人がいるんだ”と思えたんです。普段一緒にいる子たちは気づかなかったのに、意外な子が気づいてくれて正直驚きました。声をかけてくれたおかげで「死ぬのだけはやめよう」と思えました」
■縁を切られる覚悟を決めて打ち明けた想い「親父には“男として”話したかった」
――お父さまが怖くて「なかなか打ち明けられなかった」とのことですが、19歳の時に思い切って伝えた際の背景や、感情などについて教えてください。
「実は18歳の頃にはすでに男性ホルモン注射を始めていて、声も低くなり、髭も生えて、髪も短く服装も完全にメンズでした。でも親父にはまだ言えてなくて、何も聞かれないから気づいてないのかなと思いつつ、言わないままはさすがに申し訳ないとずっと思っていました。“親には必ず言わなきゃいけないわけじゃない” “全ての悩みを言う相手ではない”とも思っていたけど、やっぱり親父には本当の僕を見てほしかったし、“男として”話したかった。だから、たとえ縁を切られてもいい覚悟で、19歳の時に思い切って伝えました」
――実際にご両親に打ち明けた時、どのような反応をされましたか?その時の気持ちも合わせて伺えたらと思います。
「怖すぎて本当に記憶がないんです。リビングに入った瞬間から泣いてたらしくて、後で母に言われました。親父は戸惑ってたけど、さすがにただ事じゃないとなって、1時間くらい頑張って声震わせながら泣きじゃくって伝えました。体も震えてたらしいです。性別を変えるという話をしたとき「そっか、まあ我が子には変わりないけどね」という一言目だったのが印象的でそこからは覚えています。「手術するだろうけど健康には気をつけろよ」と言ってくれて、「言ってよかったな」と心から思いました。僕が泣きじゃくってたからノーとは言えなかったのかもしれないけど、それでもちゃんと受け止めてくれたと感じました」
――お母様にもその時に伝えたんですか?
「母には高校2年の時に伝えました。すごく仲が良かったので、すぐわかってもらえるだろうと思って気楽に話したんです。登校中、車で送ってもらっている時に「将来性別を変える」と真剣に伝えたら、受け入れがたかった様子でした。僕は気づいていると思ったんですが、気づいていなかったみたいで。ただのボーイッシュな子だと思ってたみたいです。カミングアウトした後、母の方を見ると目に涙を浮かべていました。その後1ヵ月くらい会話がゼロになりました。どちらかというと、母の方が理解に時間がかかっていて、親父の方がすぐ受け入れてくれました 」
■男として生きる道を選ぶことで「安心感”が増えて、前向きになった」
――性別移行を経て、今は男性として生活されているとのことですが、気持ちの面で変化などがあれば教えてください。
「一番大きいのは“安心感”が増えたことです。以前は社会の中で男女に分けられることに毎日不安や恐怖を感じていて、ネガティブな気持ちが多かったんです。でもホルモン注射や手術を経て、見た目や声が変わっていく中で、社会になじんでいけるような安心感が生まれました。その“安心感”ができてから、性格や考え方も前向きになりました。
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――現在はジェンダーに関して以前と比較すると寛容になってきているように感じますが、社会の変化に対してはどのような印象ですか。
「そうですね。僕は2013年頃から三重県でLGBTの講演会を続けてきて、パートナーシップ制度の整備や電話相談の運営など、地域の環境づくりにも関わってきました。活動を始めた頃は、LGBTという言葉すら知らない人がほとんどで、トランスジェンダーの理解も全然進んでいませんでした。でもここ数年で、LGBTやトランスジェンダー、クエスチョニングといった言葉を知る人が増えて、社会的にはかなり浸透したと感じます。
一方で、“知っている”だけで誤解している人もまだ多いです。メディアやネットの影響で誤解が広がっている部分もあるので、今は“知る段階”から“正しく理解する段階”に変わっていく時期だと思っています」
――性別移行のプロセスで特に大変だったことがあれば教えてください。
「移行期間は、周囲にどう説明しようかと悩み、いちいち説明しなければならない点が大変でした。FTM(Female to Male:身体的特徴は女性として生まれたが、男性として生きることを望む人や、男性の体へと移行を目指す人)の場合、ホルモンで声が低くなりヒゲが生え、骨格も変わるので、見た目がどんどん男性化し「どうしたの?」と詮索され、強制的にカミングアウトしなければならない流れになる傾向があるんです。自分は伝えたい人だけに話していて、言いふらす人には嫌な思いをしました。昔の職場で勝手に言いふらされた時は腹が立ちましたが、僕はそのまま働き続けました。こうした理由で移行期間に転職をする人も多いです」
――性別移行の過程や葛藤の中で、特に支えになった人や言葉はありましたか?
「親父の3つの言葉です。
「我が子には変わりない」ということ。そして手術だったりホルモン注射などをするにしても「健康には気をつけろよ」と言ってくれたこと。あとは「後悔なく生きてくれたら俺はそれで十分。お前の人生なんだから」という3つの言葉が宝物になっています。この3つの言葉はジェンダーに限らず人として、大事なことを真摯に伝えてくれたので、それが本当に大きかったです。「今までいろいろ我慢してきたろう。我慢してきた分、人様に迷惑かけないようにしながら、好きなことすればいい」とも話してくれて、これまでの自分も認めてくれたことが嬉しかったです」
――今もなお、自分自身の性別に違和感を抱いていたり、「自分らしく生きたい」と思いながらも葛藤している人たちがいます。そうした方々に向けて、何かメッセージがあれば、ぜひお願いします。
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