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「訓練」のその日に大災害が 〜多摩川大決壊(1974年)【TBSアーカイブ秘録】

国内
2025-10-28 20:00

東京の住宅地が西へ西へと広がった高度成長の末期、多摩川を襲った台風がありました。「夢のマイホーム」を飲み込んだ濁流。かの有名な「多摩川大決壊」です。(アーカイブマネジメント部 疋田 智)


【写真を見る】一戸建てのマイホームがひとつ、またひとつ…と目の前で流されていく


「防災の日」に台風16号がやってきた

1974年(昭和49年)9月1日。台風16号の接近により、関東地方は記録的な豪雨に見舞われました。多摩川の水位はみるみる上昇し、東京都狛江市では堤防の高さに達しようとしていました。


偶然にもこの日は「防災の日」。市では避難訓練が予定されていましたが、現実の災害対応へと切り替えられました。
午後6時には避難命令が発令され、市民は小中学校などに避難を始めました。
もはや訓練どころではありません。目の前に迫ったのは「現実の大災害」だったのです。


都下の大河がついに決壊

消防団や自衛隊が土嚢を積み水防にあたる中、午後9時45分ついに堤防が約5メートルにわたって決壊しました。


死者なし、しかし目の前で我が家が…

濁流は瞬く間に住宅地を襲い、最終的に約260メートルが決壊。3000平方メートルあまりがごっそりとえぐられました。この際、家屋19棟が倒壊、流出したのです。


流された19棟のマイホームはほとんどローン支払中だったといいます。
幸い、避難が進んでいたため死傷者は出ませんでしたが、人々の暮らしと財産は一夜にして奪われることになったのです。


宿河原堰の爆破作戦

一方、河川流域では自衛隊や警察が救助と家財の搬出に奔走しました。


しかし、水の奔流を止めなくては被害は広がるばかりです。
そこで自衛隊は水勢を弱めるため、宿河原堰を爆破する作戦を行いました。数回の試みの末、水流は本流側へ戻り、ようやく洪水は沈静化。堤防再建に着手することができるようになったのです。


河川の管理の責任は?

災害の原因をめぐっては、被災者33人が国を相手取り損害賠償を請求しました。
1979年の東京地裁は国の過失を認め賠償を命じましたが、控訴審で逆転。最終的に1992年、東京高裁が「1971年の時点で危険を予見できた」として国の責任を再び認定しました。賠償額は約3億円。発生から18年、訴訟から16年を経ての結末でした。


名作ドラマの着想源に

その後、堰は可動式に改築され、河川の安全性は大きく改善されました。狛江市猪方の現場には「多摩川決壊の碑」が建てられ、今も静かに当時を語り継いでいます。


また、この災害は家族の絆と喪失を描いたテレビドラマ『岸辺のアルバム』の着想源にもなりました。主人公たちがみんな「さよなら」と家に言いあう、あの衝撃的なラストシーンの舞台は、実際にあった出来事だったのです。


今後も備えを

多摩川水害は、自然の猛威と防災意識の大切さを改めて人々に突きつけた大水害でした。
現在はどうでしょう。たしかに災害対策はあの時代に較べて格段に進んだといえます。しかし、令和の今、地球温暖化が進む中、災害の大きさはそれを上回っているという見方もあります。
防災ゆめゆめ怠るなかれ、です。


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