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ミスタープロ野球”長嶋茂雄&”相撲の神様”大横綱双葉山、昭和→平成→令和へ受け継がれる2大スターから学ぶ「人生訓」

スポーツ
2026-05-22 12:00

「ミスタープロ野球」と「相撲の神様」。スポーツ界で抜群の人気と存在感を示した巨人終身名誉監督の長嶋茂雄氏(2025年死去)と大横綱双葉山(1968年死去)。「動」と「静」の2人の巨星には、意外な共通点があった。それはジンクスを信じず、自らの力で悪評を高評価に変えてしまう気持ちの強さと飛び抜けた実力だ。


【写真で見る】相撲界再考のスター・双葉山


球界の期待を担い「『3』と『3』で『燦々と輝く』」

通算2471安打、444本塁打、1522打点。首位打者が6回、本塁打王は2回、打点王5回。17年間の現役生活でベストナインからは一度も外れたことなく17年連続。最優秀選手(MVP)も5回ある。球界初の天覧試合でのサヨナラ本塁打を始め、「記録よりも記憶」に残る現役時代を過ごした長嶋氏の代名詞と言えば、誰もが憧れた「背番号3」だ。2度の監督時代も、最後の2年間はその巨人の永久欠番を背負っていた。


だが、引退の翌年から最初の監督時代を送った6年間、長嶋氏の背番号は「90」だった。「3番、サード、長嶋ですから」と本人は笑っていたが、「3」にまつわる数字で「3+3+3」に「0」を付けた、と言われた。


13年後の1993年、2度目の指揮を執ることになり、グラウンドに戻ってきたミスターの背には「33」があった。普通なら現役時代の入団が1958(昭和33)年だし、「3」を二つ並べて「90」と違う番号で選んだ、ということで済むところではある。ところが当時、関係者や事情通らは当初、あまり良い顔をしていなかった。巨人の球団内ではこの番号は「『3』と『3』で散々、苦労する」と言われて、地味で縁起が良くない、と思われていたからだ。


長嶋氏の現役終盤からこの番号を付けていた左の好打者がいた。しかし、彼が外野手で、その頃の巨人はレフト高田繁、センター柴田勲、ライト末次利光と不動の布陣が揃っており、なかなかレギュラーで出場出来ない。結局、代打として貴重な存在ではあったが、主力とは呼ばれなかった。


その後は、主に投手が背負った。甲子園を沸かせた往年のスターが巨人に移籍してきたが、一軍登板がないまま、1年で阪神へ。続いて期待の若手が2人もいたが、1軍勝利がなく終わった。そして、巨人だけでなく、球界全体の期待を担って長嶋氏の再登板が決まった。その際、そんな良くない評判を知った本人が言ったという。「それなら僕が『33』を『3』と『3』で『燦々と輝く』にするよ」。まさに「球界の太陽」でもあった長嶋氏ならではの発想だ。この年、その言葉から財界関係者による巨人の公式後援組織である「燦燦会」が発足した。


そして、その宣言通り、94年には日本シリーズで西武を4勝2敗で破り、監督として悲願だった日本一を達成する。監督通算では15シーズンでセ・リーグ優勝5回、日本一2回だった。


長嶋氏の後の巨人の「33」と言えば、本塁打王と打点王のタイトルを取った後に広島からFA移籍してきた江藤智や、「アジアの大砲」と呼ばれた李承燁、楽天の球団初の日本一に貢献したマギーらが背負い、大型選手や外国人選手のイメージも出来た。ちなみに今季は、ドラフト5位で沖縄電力から入団した小濱佑斗内野手が付けている。


「不運の名跡」から「角界の一大勢力」へ

一方の双葉山は言わずとしれた「不滅の69連勝」の偉業を持つ、相撲界最高のスターだ。幕内優勝12回、5場所連続を含む全勝優勝8回も記録した。現役時代から年寄を兼務する「二枚監礼」が認められていたため、土俵に上がりながら「双葉山道場」を開いて指導も行っていた。


そして終戦の年、1945(昭和20)年に33歳で現役を引退する際に襲名したのが年寄「時津風」だった。時津風の名跡自体は江戸時代から始まり、昭和初期まで存続した大阪相撲に起源を持つ由緒あるものだ。だが、双葉山の前は弟子がなかなか育たず、経営的に苦しく継承者が部屋をたたんでしまうこともあったと記録に残る。当時は「不運の名跡」と呼ばれており、「大横綱がわざわざ、そんな曰くのある名跡を継がなくても」の声が出たといわれている。


だが、双葉山は「名跡が人を左右するわけではない。それなら自分がその名跡を立派にする」と話して、周囲の心配をよそに襲名したという。その後は相撲協会の第3代の理事長として11年間務め、それまでの一門別の対戦を廃止し、現在まで続く部屋別総当たり制を導入。力士の月給制度も確立するなど、改革を断行した。また、部屋の師匠としては横綱鏡里、大関では大内山、北葉山、豊山を育て、時津風部屋を名門に押し上げた。他の部屋も加えて現在も続く時津風一門を形成。角界の一大勢力に育て上げた。


「稽古場は本場所のように、本場所は稽古場のように」との言葉を残した双葉山の稽古は、指導者になっても変わらなかったという。後援者として、朝稽古に通った故・中原伸之元日銀審議委員によると、部屋の稽古中は私語が禁止され、すさまじい緊張感と静寂の中で番数が進んだようだ。師匠の口数少なく、じっと稽古を見つめるだけ。生前の中原氏は「時津風部屋は教えるのではなく、力士自らに考えさせる稽古。それを徹底させていた。双葉山はよく『言葉で教えて強くなるなら、誰でも横綱になる』と言っていたよ」と話してくれた。そんな迫力に押されて他の部屋の力士は出稽古に来ても委縮するといわれたが、その中でいつも質の高い稽古をしていたのが、大横綱大鵬と競い合っていた伊勢ノ海部屋の横綱柏戸だったという。


2人のスターの共通点

圧倒的な地力とオーラで他の選手、他の力士を凌駕した長嶋氏と双葉山だが、共通するのは基本を大切にする姿勢だ。長嶋氏では素振り。「いつも、納得いくまでバットを振りましたよ」と監督時代に話していた。現役の頃は遠征先等で風呂から上がって衣服を着ないままでバットを手に取ることもあったと聞く。そして、その素振りの大切さを巨人で愛弟子となった松井秀喜(後の米ヤンキース、エンゼルス、アスレチックス、レイズ)に伝授した。


双葉山が大事にしたのが四股とてっぽうだ。とくに反動を使わない四股はゆっくりとして、足の挙げ方の美しさにもこだわっていたという。物静かで弟子たちにも読書を薦めるなどして、広く知られる「心・技・体」の言葉を「力士の理念として使い始めたのも双葉山だ」と、相撲の取材を始めたころに協会関係者から耳にした。


2人のスーパースターから学ぶべき教訓は多い。昭和から平成を経て令和になった現代も、その人生訓と輝きは変わらない。

(竹園隆浩/スポーツライター)
 


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