
大相撲の人気力士で、「南海の黒ヒョウ」と呼ばれた元大関若嶋津の日高六男さんがこの春、69歳で亡くなった。長く相撲部屋を構えた千葉県船橋市に近い市川市で行われた3月の告別式には八角理事長(元横綱北勝海)以下、日本相撲協会の重鎮が参列。同じ二所ノ関一門で稽古から相まみえた元大関琴風の中山浩一さんが弔辞を述べた。その会場で会葬者らの注目を集めたのが「昭和の名勝負の一つ」と言われ、本人が「生涯、最高の相撲」と言っていた横綱千代の富士との大熱戦の動画だった。
その取組は、1985(昭和60)年春場所14日目の結びの一番。西大関の若嶋津は大関昇進3年目の28歳。前年の84年は同じ春場所で初優勝。名古屋場所では2度目の賜杯を全勝で飾り、綱とりこそ逃していたものの、71勝19敗で年間最多勝も獲得。次期横綱候補の呼び声が高かった。同じ鹿児島出身の人気歌手高田みづえさん(現おかみさん)との婚約を発表した直後のこの場所は、3度目の優勝を目指し、この日まで大関朝潮と並んで2敗の首位。勝てば、千秋楽の大関相星決戦で賜杯を競い合う心づもりだった。
迎えた相手は1歳年上で当時、東の横綱に君臨していた千代の富士だ。一つ前の初場所は、蔵前から両国に39年ぶりに国技館が戻った記念の場所で2度目の全勝優勝。優勝回数を11回に伸ばし、数々の記録を残してこの新しい国技館で引退した横綱北の湖に代わって角界の主役に座っていた。春場所はすでに3敗はしていたが、勝てば、逆転優勝への望みがつながる一番だった。
軽量の若嶋津が「小さな大横綱」に仕掛けた先手
対戦成績は若嶋津からみて、1勝15敗と大の苦手。けんか四つで得意の左四つになってもなかなか勝てない。「綱とりへの最大の壁」と言われた183㎝、126㎏の「小さな大横綱」は、筋肉質で左前まわしを取っての速攻と力強い上手投げが強烈だった。一方、若嶋津もスピードでは引けはとらない。素早い動きと切れのある投げ技で最も地力が出ている頃だった。188㎝、118㎏と身長では上回るが、体重ではさらに軽量。その弱みをつかれ、つり寄り気味に攻められることが対戦成績に現れていた。
「ウルフ」対「黒ヒョウ」。仕切りからにらみ合う精悍な顔立ちの2人は、立ち合いから「力」と「技」を出し合った。先手は若嶋津だった。踏み込んで左右の前まわしを引いた。だが、横綱はすぐに内側から右の前まわしを引き、得意の右四つに。間髪入れず、若嶋津がつり気味に出たが、踏ん張られた時には両差しを許していた。何とか左の上手投げから態勢を戻し、2人は土俵中央で両前まわしを引き合う力相撲になった。
息をもつかせぬ1分43秒の攻防
先手を取りたい若嶋津は有利な左を巻き替えて、再びつりで攻める。腰を伸ばし、腹を出して踏ん張ろうとする相手を見て次に外掛けを仕掛けた。決めきれなかったが、大歓声の中、逆に両差しに成功した。すると、すかさず千代の富士が自分の型である右を巻き替えにきた。それは許さなかったが、左は差されて二本差しは崩れて左四つに。ここで1分が経過した。
立ち合いから後手に回った千代の富士も勝負に出る。土俵中央から「今度はこちらの番」とばかりに、若嶋津戦でよく見せるつり寄りを出してきた。だが、想定内ではあったのだろう。外掛けでこらえ、そのまま逆に下手投げで土俵際に迫った。片足が上がってバランスを崩しかけた横綱だが、やはり下半身の粘り強さは天下一品だ。体勢を立て直した。すると、若嶋津が今度は反対の右の上手投げからの寄りで攻めたてた。だが、相手は下手投げを打ち返して粘る。右を巻き替えられたが、すぐに巻き返す。最後は上手投げに来た千代の富士の懐に重心を沈めながらこらえ、こちらは下手投げを打ち返した。相手が左足一本で必死にこらえるところを、渾身の力で伸し掛かるようにして土俵の外へ寄り倒した。1分43秒。手に汗握り、息をもつかせぬ攻防の連続。大入りの館内は歓声と悲鳴と拍手が呼応した。
2人の絶頂期の「心技体」が現れたと言ってよい一番だった。大型化が目立つ最近では両者がともに両まわしを引き合い、互いの技を受けあって、その技を切り返すことや、粘り合いが少ない。押し相撲が増えたせいもあるが、土俵際で踏ん張るよりも、すぐに体を開き、一発逆転を狙う動きが多い。決まれば、逆転するが、決まらなければ、あっけなく勝負が終わる感じだ。しかし、「ウルフ」と「黒ヒョウ」の勝負は巻き替えの応酬、左右の投げの打ち合い、そしてつり合い、粘り合い。全ての動きに観客の心が躍った。培われた力と技、そして執念。勝利への道筋の魅力が詰め込まれた、まさに昭和の大相撲だった。
千代の富士が認めた地力
敗れた千代の富士は取組後の支度部屋で、熱戦を振りかえってこう話したという。「ダメだねぇ。両差しにこだわりすぎた。右四つになっても最後までは攻め切れない」。対戦成績では大きくリードはしていたが、当時の若嶋津の地力を認めていたからこそのコメントだったのだろう。
この一番で力を使い果たしたわけではなかろうが、千秋楽の若嶋津は初優勝を目指した朝潮の出足を止められずに完敗。その後は優勝争いに絡むことは出来なかった。この場所は、東西の横綱に千代の富士と隆の里。大関には2人のほかに北天祐と琴風。その他にも幕内上位に後の横綱が4人いた。関脇の保志(後の北勝海)と大乃国。小結の北尾(後の双羽黒)。東前頭筆頭に旭富士。また、275㎏で「昭和の黒船」と恐れられて後に大関になる小錦も西前頭3枚目だった。文字通り、「群雄割拠」。完全な大型化が始まる前の時代の話だ。
泥臭く、美しく駆け抜けた相撲人生
千代の富士から2勝目を挙げた若嶋津だったが、最終的な対戦成績は3勝25敗。苦手意識は最後まで消えなかったようだ。綱には届かなかったが、細身で持てる力を振り絞る取り口は人気を集め続けた。2年後の87(昭和62)年名古屋場所で引退したが、その時の言葉を清々しく思い出す。
「悔いはありません。自分なりに努力しました。大関にもなれたし、心はきょうの天気のように青空です」
ファンの心に焼き付いたあの大阪、春場所での雄姿。鹿児島の離島、種子島から来たその男の輝きは、永遠に消えることはない。
(スポーツライター/竹園隆浩)
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