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「あんな微罪で死ぬことはないだろう…」逮捕直前にホテルで命を絶った新井将敬 衆院議員「この場に帰って来れないかもしれないけども、最後の言葉に嘘はありませんから」【平成事件史の舞台裏(28)】

国内
2025-10-10 01:01

事件の捜査とは、常に生身の人間を相手に行われる。
だからこそ、捜査対象のキーマンの死が事件の流れを大きく変えることがある。


【写真で見る】「筑紫哲也ニュース23」に出演する新井将敬衆院議員


「総会屋事件」は、4大証券会社から第一勧銀へと波及し、やがて「大蔵省接待汚職事件」へと発展していった。そうした中、自民党の新井将敬衆議院議員が日興証券に対し、利益供与を要求していたという容疑が浮上する。


東京地検特捜部は、日興証券元役員の供述などから、新井が利益供与を要求したうえで「証拠隠滅工作」を図っていたことを突き止め、国会の会期中に逮捕する方針を固めた。


しかし、新井議員は東京地検への出頭を目前に、東京・品川区のホテルで自ら命を絶った。


政治家と東京地検特捜部の攻防ーー水面下でいったい何が起きていたのか。捜査関係者の“肉声”や取材メモをもとに、封印されていた捜査の舞台裏を検証する。


総理に手渡されたメモ…こばわる表情

1998年2月19日――戦後の政界事件史に深く刻まれる一日となった。


東京・霞が関の中央合同庁舎6号館にある検察庁。東京地検特捜部の政界ルート捜査を担う「特命班」を率いる粂原研二(32期)は、庁舎内でNHKの国会中継を見ていた。その最中、画面にニュース速報が流れた。


「自民党・新井将敬議員がホテルで自殺を図る」


衆院本会議場に第一報が入ったのは午後3時過ぎ。
村岡兼造官房長官が大臣席から身を乗り出し、耳打ちで情報を受け取った。メモは松永光大蔵大臣から小渕恵三外務大臣へ、さらに橋本龍太郎総理大臣へと回された。


テレビに映し出された橋本総理の表情は、明らかにこわばっていた。


この日、特捜部は新井将敬の逮捕の許可を橋本内閣に求め、衆議院で「逮捕許諾」が議決される見通しだった。だが、議場を覆ったのは予想外の訃報だった。


「検閲だから断る」テレビに無断出演で更迭も

新井将敬は1948年、大阪市に生まれる。北野高校から東大経済学部を経て新日本製鐵に入社するが、1年で退社し1973年、大蔵省に入省。酒田税務署長、銀行局課長補佐を歴任したのち、1981年には渡辺美智雄大蔵大臣の秘書官に抜擢され、政治の世界に足を踏み入れる。


のちに政治家を志した理由を、自著でこう記している。


「権力のためではない。信頼、友情、思いやりといった価値を実現するためだ」


1983年、中曽根派の新人として旧東京2区から初出馬するも落選。選挙ポスターに誹謗中傷の黒いシールを貼られる「黒シール事件」にも見舞われた。86年、再挑戦で初当選。92年には「東京佐川急便事件」で金丸信副総裁を激しく批判し、竹下登元総理に離党を迫るなど、「改革派の旗手」「平成の坂本龍馬」として脚光を浴び、テレビ討論でも人気を集めた。


筆者の記憶にも残る出来事がある。92年11月、筆者が「筑紫哲也ニュース23」のディレクターを務めていた頃のことだ。


自民党幹事長・綿貫民輔は、新井に「番組出演は事前に党へ届け出るように」と通告した。だが新井は応じず、翌日のニュース23に出演したのである。


「出演を届け出るよう言われたが、検閲だから断った」とスタジオで筑紫キャスターに語る姿は鮮烈だった。「改革派の急先鋒」としてメディアを積極的に使う一方、無断出演を理由に衆院外務委員会理事を更迭されたこともあった。


新井は当時、テレビについて次のように語っていた。


「政治の世界では、若手の力は圧倒的に弱い。だからこそ、国民に対して、私たちの意見をテレビを通して、直接聞いてもらう機会は重要だと思っている」
「テレビは話したことがそのまま伝わるので、危険な真剣勝負である半面、信頼感も持っている」


当選同期の石破茂(後の総理大臣)が記憶する、新井の最後の言葉】

93年、自民党を離党。94年4月、柿沢弘治や高市早苗らとともに渡辺美智雄元副総理を担ぐ「柿沢自由党」を結成したが、渡辺の離党断念で計画はとん挫。その後94年12月、「新進党」に参加するが、小沢一郎に反発して離党。96年の小選挙区選挙では無所属で当選し、小泉純一郎や石原慎太郎を「守旧派」と批判した。同年10月に、船田元や石破茂(後に総理大臣)ら無所属で当選した5人で新会派「21世紀」を立ち上げたが、翌97年7月、橋本政権の自民党に復党した。


だが、党派を転々とする中でテレビ出演の機会は減少し、かつての「改革派の論客」としての存在感は次第に薄れていった。


当選同期の石破茂(後の総理大臣)は、新井の最後の言葉をこう記憶している。


「1986年当選組の中で、最も才能があり、輝けるスターであった故・新井将敬議員がその死の直前、私に対して、『石破、マスコミには気をつけろよ。俺はマスコミに持ち上げられてどんどん過激なことを言っているうちに、引っ込みがつかなくなってしまった。持ち上げるだけ持ち上げて、その後落とせるだけ落とすのがマスコミなのだ』と、なんとも寂しそうに言っていたのを思い出します。あれは新井議員の私に対する遺言であったように思えてならない」(石破茂オフィシャルブログ 2010年4月16日)


元大蔵大臣・渡辺美智雄とのつながり

1997年に自民党へ復党した新井は、かつて所属していた渡辺美智雄派(渡辺派)には戻らず、三塚派(清和会)に入った。三塚派幹部の亀井静香から直接誘いを受けたためで、事件当時も亀井グループに属し、大蔵委員会に所属していた。


しかし復党からわずか数か月後、証券取引法違反の疑いが発覚することになる。


新井に政治家への道を勧めたのは「ミッチー」の愛称で知られる渡辺美智雄だった。副総理、外務大臣、通産大臣、大蔵大臣を歴任した自民党の実力者で、1993年には総裁選にも立候補している。


渡辺の政治信条は「政治家の仕事は、勇気と真心を持って真実を語ること」。この言葉は2024年、石破茂総理大臣が所信表明演説で引用し、裏金事件で失われた自民党への信頼回復を誓ったことでも注目を集めた。


国会で新井は、株取引に関わる経緯をこう説明している。


「私は渡辺美智雄大蔵大臣の秘書官をしておりました。その折、『政治家になったらどうだ』という大変ありがたいお話をいただきました。私は地盤も看板も基盤もないので一度は断りました。その際、渡辺先生に『私は在日の韓国人として生まれ、16歳まで在日韓国人でした。このことは大蔵省も知らないと思います』と正直に申し上げました」
「すると先生は『今隠すことがあるなら、おれに言っておけ』とおっしゃり、さらに『おれが面倒を見てくれる人間を探す』として、ある証券会社の大幹部を紹介してくださったのです」(参考人質疑 1998年1月30日)


新井は、紹介された証券会社幹部にこう自己紹介したという。


「僕は大蔵省出身で、今でも親しくしている役人は大勢いるし、大蔵委員会の理事もしているから、日常的に大蔵省の役人と議論しているんですよ。よければ、大蔵省の方をご紹介しますし、何かあったら、僕に言ってくれれば、いつでも相談に乗れると思いますよ」


新井をめぐる容疑はこうだ。
知人の西田邦明名義で「借名口座」を日興証券新橋支店に開設。同社元副社長とその部下だったH元常務に対し、「確実に儲けさせてほしい」と執拗に利益を要求していたとされる。
日興証券側は、自己売買で得た利益をこの「借名口座」に付け替え、新井はその結果、約4,900万円の利益提供を受けた疑いがもたれていた。特捜部はこのうち証拠がはっきりしている約2,900万円について、証券取引法違反(利益供与の要求)の容疑で逮捕状を請求した。


「今日は署名しないから無駄」自死2日前に特捜部の取り調べ

東京地検特捜部の粂原研二は、新井が命を絶つ2日前、1998年2月17日の夕方、東京・千代田区一番町の「ダイヤモンドホテル」のスイートルームで取り調べを行った。このホテルは新井自身が指定したもので、弁護人で元検事の猪狩俊郎(33期)が構える一番町綜合法律事務所から、徒歩5分ほどの場所にあった。


粂原は前年の1997年4月、SEC(証券取引等監視委員会)から特捜部に復帰した直後、主任検事の井内顕策(30期)からこう告げられていた。


「政界ルート捜査の特命班をやってもらう」


SEC出向時代の経験から金融・証券取引事件に通じていたことが、その理由だった。


この日の取り調べで新井は、粂原に対しこう述べた。


「検事さん、調書を作っても、今日は署名しませんから、無駄ですよ。今後も取り調べには応じますから、そんなに急がなくてもいいでしょう。いつでも呼んでください」


こう言われた粂原は、3時間で取り調べを切り上げ、新井を帰宅させた。


「新井はこちらが聞いてもいないのに、出自や経歴などをかなり雄弁に語っていた。逮捕してからじっくり調べるつもりだったので、3時間ほどで帰ってもらったと思う。ただ、検察庁で待っていた主任検事の井内顕策さん(30期)から『もう帰したのか』と言われたことを覚えている」


さらに粂原は、当時をこう振り返る。


「自ら命を絶つようなことを考えている様子は全く見られなかったし、そのような事態に至ることを予見させる言動もまったくなかった」


この日の取り調べで、新井は「日興証券に儲けさせてもらった事実」は認めたが、「利益提供を自分から要求したことはない」と従来の主張を繰り返した。さらに、新井は供述調書の作成自体を拒否した。


特捜部の狙いは、新井に「否認する調書」に署名させることで、後に本人の「虚偽」を立証するために、証拠として確保することだった。しかし、新井はこれも一切拒否し、最後まで応じなかったのである。


関係者によれば、新井は「しばらく任意の取り調べが続くだろう」と考えていたという。だが特捜部は、「在宅のまま任意捜査を続けても新井が真実を語るとは考えにくい。さらに証拠隠滅の恐れもある」と判断した。最終的に「任意捜査」から「強制捜査」に切り替え、逮捕に踏み切る方針を固めていた。


通常、国会議員の取り調べは東京地検特捜部副部長の役割とされている。これは「国民に選ばれた議員への敬意」を示す意味があった。


1976年のロッキード事件で田中角栄元首相を取り調べたのは副部長の石黒久𥇍(8期)。その後も、1990年代に金丸信元副総裁や中村喜四郎元建設大臣、阿部文男元長官らを担当したのはいずれも当時の副部長、熊﨑勝彦(24期)であった。


1995年の二信組事件での山口敏夫元労働大臣は有田知徳(26期)、2000年の石橋産業事件での中尾栄一元建設相は井内顕策(30期)、2002年の鈴木宗男議員は谷川恒太(32期)と、国会議員案件は副部長が直接当たるのが慣例だった。


この慣例に従えば、新井の取り調べを担当するのは副部長の山本修三が順当であった。しかし、SECへの2年半の出向経験があり、証券事件に精通していた粂原を「適任」と見た山本は、あえて任務を託したのである。


「不逮捕特権」と「検察首脳会議」

国会議員には憲法で「国会の会期中は逮捕されない」という特権が認められているが、国会に許可を得ることにより、例外的に逮捕は可能となる。ただ、そのためには「逮捕許諾請求」をして逮捕状の内容を国会に提示しなければならない。


これは証拠の一部を事前に明らかにすることを意味し、検察側にとって大きなリスクを伴う。そのため原則として「会期中の逮捕は避けたい」というのが検察の本音だった。


しかし新井将敬のケースでは、逮捕しなければ、証拠隠滅の恐れが濃厚だと判断された。「国会の会期中であっても逮捕に踏み切るべきだ」という点について、検察内部で異論は出なかった。


新井の取り調べが行われた翌日の2月18日午前8時半、検察庁19階の会議室で「検察首脳会議」が開かれた。「検察首脳会議」は政治家が絡む重大事件の際に招集され、ここで最終的な立件方針が決定される。


出席者は以下の通りだった。


【最高検】
検事総長・土肥孝治(10期)、次長検事・堀口勝正(16期)、刑事部長・東条伸一郎(17期)


【東京高検】
検事長・北島敬介(13期)、次席検事・高野利雄(20期)


【東京地検】
検事正・石川達紘(17期)、次席検事・松尾邦弘(20期)、特捜部長・熊﨑勝彦(24期)、副部長・山本修三(28期)


【法務省】
刑事課長・藤田昇三(28期)


このうち北島、石川、東条、熊﨑の4人は、1993年の「ゼネコン汚職事件」で、中村喜四郎元建設大臣に対して、当時26年ぶりとなる国会会期中の逮捕を決めた検察首脳会議にも参加していた顔ぶれであり、いわば「特捜人脈」が再び集結していた。


検察首脳会議では、副部長の山本修三が約40分かけて捜査経過を報告。日興証券元副社長やH元常務の供述、新井が一貫して容疑を否認している状況などが説明された。逮捕に慎重な意見も一部あったというが、最終的には「新井逮捕」で一致。正式に方針が了承された。


「証拠隠滅もあったが、四大証券や第一勧銀のトップをごっそり逮捕しておいて、政治家だけ例外扱いにはできない」(元検察幹部)


会議終了後、法務省の原田明夫刑事局長が下稲葉耕吉法務大臣に「逮捕方針」を報告。すでに事務方から説明を受けていた下稲葉は形式的に了承し、東京地検特捜部はただちに東京地裁に逮捕状を請求した。


東京地裁は「証券取引法違反容疑」で逮捕状を発付し、橋本龍太郎内閣に「逮捕許諾請求書」を提出。国会の会期中の新井議員逮捕に向け、いよいよ手続きが動き始めた。


同時に特捜部は強制捜査に着手。衆議院議員会館の新井事務所、大田区久が原の自宅、西蒲田の地元事務所など計13か所を一斉に家宅捜索した。


翌3月19日正午、衆議院議院運営委員会は全会一致で「新井逮捕の許諾」を議決。あとは本会議で正式承認されれば、午後7時には新井が検察庁に出頭する段取りとなっていた。


だがその時すでに、新井は品川のホテル・パシフィックメリディアンで自ら命を絶っていた。


「あんな微罪で死ぬことはないだろう」

新井将敬の顧問役として相談を受けていたのは、元検事の猪狩俊郎弁護士である。1997年12月、読売新聞が疑惑をスクープした当日、新井がマスコミの前で否定会見を行った際にも、猪狩は同席していた。


年が明けた1998年1月30日、国会での参考人招致。新井は「借名をお願いしたのは、私からでございます。政治家としての、特権意識があったというのは反省いたします」と述べ、責任の一端を認めた。
しかし「儲けされろ、儲けさせろと、私は強要したりする人間ではございません」と語り、利益供与を要求した事実はきっぱり否定した。


2月17日、東京地検特捜部の粂原検事による取り調べを受け、翌18日には記者会見を開く。公の場に立つのは、これが最後となった。


会見では、日興証券のH元常務らとの会話を録音した「テープ」の内容を公開し、「自ら利益を要求したことはなく、日興証券は私を加害者に仕立て上げ、危機を乗り切ろうとしている」と強調。さらに「私の最後の言葉を10分の1でも信じてほしい」と訴えて会見を締めくくった。


その終盤、記者団に残した言葉が、いかにも意味深だった。


 「この場に帰って来れないかもしれないけども、皆さん、今日私が言ったことはよくご理解ください。最後の言葉に嘘はありませんから」


翌19日午前2時前。弁護人の猪狩のもとに、新井の妻から電話が入った。


 「先生…新井が…宿泊先の品川のホテルで…首を吊って自殺しました。今度どうしたらいいかご指導いただけないでしょうか…」


猪狩は即座に応じた。


 「分かりました。今、事務所にいます。車ですぐ行きますから、誰にも知らせないでください。政治家を含め、私が行くまで誰にも知らせないでください。へたに知らせるとマスコミが嗅ぎつけて大混乱になりますから」


「分かりました。この後のことはすべて先生のご指示に従います」


「部屋はどこですか」


 「2338号室です。部屋で先生をお待ちしています」


電話を切ると猪狩はすぐにタクシーを拾い、品川の「ホテルパシフィックメリディアン東京」へと向かった。


 渋滞に苛立ちながら、車中で胸をかき乱されていた。


 「あの意思が強く、誇り高く、自信満々で、戦闘精神旺盛な新井が……」


信じがたい知らせに、思わずつぶやいた。


 「何もあんな微罪で死ぬことはないだろう。たとえ逮捕されても、特捜部の『利益供与要求罪』の構成要件に無理があることはわかっているのだ。そのために私だって新井さんに頼まれ、危険を承知で(反証となる)証拠を集めてきたんじゃないか。それなのに……」(『激突』猪狩俊郎)


ホテルの部屋に到着すると、すでに亀井静香ら数名の国会議員や新井の秘書の姿があった。だが、まだ警察への通報はなされていなかった。


「双方代理」の懸念も それでも引き受けた夫婦の“確約”

猪狩は、新井に対し「逮捕状の容疑は特捜部が手掛ける経済事件としては微罪にすぎない」と説明していた。新井が問われた証券取引法違反(利益要求)は、当時の法定刑が「懲役6カ月以下」と極めて軽微であり、のちの法改正で「懲役3年以下」に引き上げられる前のことであった。


これに対し、東京地検特捜部が得意とする「収賄罪」は単純収賄でも懲役5年以下、「受託収賄」なら7年以下、さらに「脱税」では10年以下といずれも重い。だからこそ猪狩には、「本人にも説明していたのに、なぜ…」という思いが拭えなかった。


さらに猪狩が「危険を承知で」とつぶやいた言葉には、背景があった。
端的に言えば、猪狩が新井の弁護人を務めると同時に、日興証券のH元常務の弁護をも引き受けたことを意味している。
これは弁護士倫理に反する「双方代理」にあたるのではないかとの疑念を招き、猪狩は特捜部と鋭く対立していた。


やや説明を要する。


総会屋・小池隆一への利益供与事件において、元常務のHは東京地検特捜部に逮捕された。すると新井は、知人のH常務に対して「猪狩先生に弁護人をやってもらいましょう」と持ちかけた。


ただ、新井自身も小池隆一と同様にH元常務から「利益供与」を受けた疑いがもたれており、今後の捜査の展開次第では、新井から「利益の要求があったかどうか」という点で、新井とH元常務の主張が食い違ってくることも十分に予想された。


猪狩はH元常務から話を聞いた上で、最終的に弁護を引き受けたが、この状況は弁護士にとって重大なリスクを孕んでいた。
つまり猪狩は、日興証券元常務のHと、国会議員の新井という、「利益が相反する可能性のある当事者双方」を同時に弁護することになり、典型的な「利益相反」になりかねない状況だった。


そもそも弁護士は一つの事件で、対立する当事者双方を同時に弁護することは「双方代理」として許されていない。
「利益を提供したH」と「利益を要求したとされる新井」の双方を担当すれば、いずれか一方の利益が損なわれかねず、弁護活動の公正性が失われるからだ。
こうした原則は、「弁護士職務基本規程」にも明記されている。


しかし猪狩は、当時は「利益相反にはあたらない」と判断した。


なぜなら、H自身が“新井のファン”であることを公言し「(利益の)付け替えは(新井の要求でなく)独断でやったことで、新井自身は知らないことだった」と断言しており、新井と争う主張はしていなかったからである。


念のため猪狩は、第一東京弁護士会の担当委員に意見を求めた。結果、3人の委員はいずれも「受任は問題ない」と回答した。


さらにHは「総会屋・小池隆一に利益提供をしていないことを、飜すことは絶対ありません」と、否認を貫くことを固く約束した。Hの妻も「命をかけてでも主人を守ります。決して猪狩先生に迷惑をおかけしません」と誓った。


夫妻そろって「検察に屈しない」と確約したのである。


その言葉に動かされ、猪狩は最終的に9月29日、Hの弁護人を引き受ける決断を下したのだ。


だが、特捜部の追及が本格化するにつれ、Hは黒川弘務検事の取り調べに動揺し、供述が徐々に揺らぎはじめたのである。


(つづく)


TBSテレビ情報制作局兼報道局
ゼネラルプロデューサー
岩花 光


《参考文献》
村山 治「安倍・菅政権vs検察庁」文藝春秋
猪狩俊郎「激突」光文社
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」 新潮社
村山 治「市場検察」 文藝春秋
村串栄一「検察秘録」光文社
産経新聞金融犯罪取材班 「呪縛は解かれたか」角川書店
 


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情報提供元:TBS NEWS DIG Powered by JNN

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